――なんで、止めなかったんだろう。
一緒にいて怖い思いをするなら、そんな人とは一緒にいたくない。ほんのわずかな間とはいえ、そう思ってしまった自分がたまらなく嫌な人間に思えた。
――自分も『見えない』人間からはそう思われる側なのに。
自己嫌悪と、明日学校で何を言おうという悩みに悶々としながら、玄関から廊下に上がる。ふと我に返ってみると、道場はがらんとしていた。
午後からは休みだったかと思い、壁に掛けられた日めくりカレンダーに目をやるが、そこには何も書き込まれてはいない。
不思議に思いながら居間へと歩いていくと、光江がいつもの丸い卓に夕飯を並べているところだった。
「あら、美佐子ちゃん、お帰りなさい。ご飯用意しておいたから、好きなときに温めて食べてね」
夕飯にはまだ早過ぎる時間だった。光江は並べたご飯の上に広げた布巾を被せ、膝の上に乗せていたバッグを開ける。
中の物を出し鏡を見ながら化粧を確認するその様子は、美佐子には少し新鮮だった。
「どこか出かけるんですか?」
となりに座ると、光江は嬉しそうにうなずいた。
「そう、今日は高校生時代の友だちと飲み会なのよ。だから、早めに夕飯作ってたの。時間まで終わるかどうか心配だったけど、静見ちゃんに手伝ってもらって」
名前が出ると、美佐子はつい、縁側に目をやってしまう。茶色の膝掛けにくるまった、紺色の浴衣姿が見えた。
「料理……できるんですか?」
料理どころか、静見が起きて何かをするところは、ほとんど見たことがない。
「あら、上手いのよ。たまに手伝ってもらってるの。今日は柔道の人たちのお弁当も早めにできたから、皆さん、ランニングがてらにハイキングに行ってるわ。東公園まで走っていって、そこで食事して解散なんですって」
東公園と言えば、普通はバスを使って行く距離だった。美佐子は道場のことはあまり知らないが、何かあるたびに、実はとんでもない訓練をしているんじゃないか、と思わされる。
「ほかの人たちのご飯もできてるし、美佐子ちゃん、今日はゆっくりできるわよ。ちょっと寂しいかもしれないけど、大治さんはお部屋にいるはずだわ」
神代大治は祖父の名前だ。いてもいなくても大抵は関係がないが、美佐子は少しだけ安心する。
「それじゃあ、あとは頼むわね」
「はい。気をつけて」
立ち上がってコートに袖を通した光江を、美佐子は笑顔で玄関まで見送った。
二階の自室で制服から私服に着替えて居間に戻ると、急いで帰らなきゃ、と思っていたのが馬鹿馬鹿しいほどに急に暇になる。
それが一番したいこと、時間を忘れることであっても、今更学校へ戻ってサッカー部の見学というわけにもいかない。すでにだいぶ日が傾いている。
それに今は、ほんの少しでもあの古い家に近づきたくなかった。
なので、光江に言われたとおりテレビをつけ、せんべいを食べながらゆっくり過ごすことにする。それでもテレビ番組の内容は頭に入らず、あの化物のことを、そして桐紗のことを考えていた。
今まであれほどはっきりと普通の人間には見えないものを見たことはない。それに、あれは美佐子が幼いころから気配を感じてきたいわゆる幽霊などとは、違う種類のものだと確信していた。
妖怪のようなものなのか、と考えてみる。そういったものにも興味があるらしい祖父に、機会があれば尋ねてみよう、と心の中の覚え書きに追加する。
落ち着いて考えるうちに、今はこうして生きて安全なところにいるということを実感して、美佐子は桐紗が『見える』人間だったことに感謝した。あの怪物が見える相手に危害を加えられるとは限らないが、彼女がいなければ、あるいは彼女が見えなければ、殺されていたかもしれない。
怪物と目を合わせたときには確かに死が身近に感じられたのだ。
桐紗は、命の恩人。それを拒否するようなことはしたくない。ああいうのを引き寄せる体質だと言っていたが、あの家に近づくまでは何ともなかったのだ。今後あそこに近づかなければいい。
――明日、こちらから誘ってみよう。毎日、一緒に帰れるように。
そう決意すると、ずいぶん気分が軽くなった。考えることがなくなると空腹を感じて、少し早めの夕食をとる。
気がつけば外では夕日も山並みに消えていくところだ。空は半分以上、暗い紺色に染まりつつある。
その色を目にして、美佐子は静見の存在を思い出す。
祖父は部屋にこもり、光江は帰り、道場も空。ほかの居候も自室にいるか、そうでなければ外出している。今、この周囲にいるのは静見と美佐子だけだ。
静見のことは苦手だったが、一緒にいて危険を感じることはなかった。美佐子にとってまさに得体の知れない存在である静見に、他人への興味というものがあることすら想像できない。
春とはいえそろそろ空気も冷えてくる時間だ。せめて、縁側の天井の端に丸められている簾を下ろそうかと縁側に歩み寄る。
静見は朝のように目覚めることもなく、膝掛けを抱いて顔をうずめている。その姿だけ見ると、人畜無害な小動物か何かのようだ。
それでも今までにも何度も驚かされた静見のことだ。いつ、唐突に声をかけてくるかわからない。
そう思いながらそっとそばを抜け、簾をまとめる紐の結び目に指をかけたところで、縁側の下から飛び出したものが目に入る。
「メテオ、またここにいたの」
夜闇に溶け込みそうな黒猫が身軽に岩から岩へと飛び移り、クルリと振り返る。金色の目が鋭く輝いた。
竜樹の頼みは、今の今まですっかり頭から抜け落ちていた。美佐子は心の中で幼馴染みに謝りながら、猫に小さく手を振った。
「ちゃんと竜樹のトコに帰るんだよ」
それに答えるように、にゃあ、と一声鳴いて、黒いものが木の柵を飛び越えていく。
『この子は不思議な猫だねえ。まるで人間のことばが理解できてるようだ』
以前、祖父がそう言っていたのを思い出しながら、それを実感する。毎日のように通ってはきちんと帰っていく行動にも、何か彼なりの意味があるように思える。
メテオを見送る間にも、美佐子は少し寒さを感じた。日が暮れてだいぶ気温が下がっているらしい。
できるだけ音を立てぬよう、そっと簾を下ろす。夜闇が竹の列に遮られ、明るく広い家の中がやけに静まり返っているように感じて、居間に戻るとテレビの音量を少し上げる。
少ししてから、うるさいかもしれないと気がついて、静見を振り向く。
瞬間、目の前に広がった光景の中で注意を引いたのは藍染の浴衣姿ではなく、テーブルのそばに転がる白い物だった。
上品な革製の財布は、何度か目にしたことのある柄である。
「あ……」
光江はここからそのまま飲み会に出かけていったはずだ。今さら家に届けに行ったところで、遅いかもしれない。
しかし家に届けさえすれば、家の者が連絡を取ってくれるかもしれない。それに、財布を見つけていながら明日まで放っておくのは気が引ける。
光江の家は、駅前通りのさらに一本北の通りだ。ここからなら歩いて五分余りの距離である。届けるのにそれほど時間はかからない。
あの化物のことを考えると、今日はもう外に出たくはなかった。それでも、どうしても忘れ物の存在を無視はできないのが美佐子の親切な性格だ。
脱いで壁に掛けてあった上着を再び着ると、光江の財布を大事に内ポケットに仕舞う。
「……出掛けるのかい?」
テレビのスイッチを消すと、静けさの中に突然声がしたので、美佐子は飛び上がらんばかりに驚いた。
落ち着いて考えれば声の主はわかりきっている。目を向けると、静見が頭を掻きながら身を起こしていた。
「さすがに、夜に孫娘をただ一人行かせたとあれば、大治どのに何と文句を言われるかわからない」
「え……それじゃあ、一緒に……?」
意外だった。外を歩く静見など、数えるほどしか見たことがない。増して、一緒に肩を並べて歩いたことなどあるはずもなかった。
「今は、ほかに一緒に行ける者がおらん。儂が行くより仕方がなかろう」
面倒臭そうに言って、適当に美佐子の祖父の羽織を借りて袖を通す。
苦手な相手ではあった。それでもひとりで歩くより一緒のほうがずっと安心できる。それに、貴重な経験への好奇心もある。
そして、今の彼の行動は何か温かい記憶を呼び起こすのだ。昔、幼い頃に自分の面倒を見てくれている大人が、一緒に出かけてくれた記憶。日差しの中を誰かと手をつないで二人で歩いた場面が一瞬だけ、まぶたに浮かぶ。
「あ、ありがとうございます」
嫌というより、むしろ少しだけ嬉しい気分にすらなって、青年に礼を言う。
彼女が玄関を出ると、いつもの眠たそうな顔に浴衣の上に羽織という格好の青年が、数歩後ろに続く。旅館も多い駅周辺では、彼の格好もそれほど目立たないだろう。
特に話をすることもなく、住宅街を駅前通りへ向かう。近づくにつれ周囲に通行人の姿が増え、賑やかな喧騒が風に流されてくる。
飲食店やデパートの並ぶ駅前通りは、丁度一番賑わう時間帯だ。信号を渡るときなど人の波に飲まれそうになるが、振り返ってみると、静見は距離を離れることも縮めることもなく、しっかりとついてきていた。
人込みを抜け、小路からもう一本北に入ると、思わずほっとする。
だが、すぐにその安堵も別の不安に取って代わられる。アパートや企業のビルが並ぶこの細い通りは、駅前通りが隣にあることを忘れるほど暗く静かだった。
一言も口を利かなくとも、少女は背後に確かにあるぬくもりを心強く思った。
静見の気配を感じながらしばらく歩いて、〈メゾン宵桜〉と壁に彫られた、二階建てのアパートを見つける。外観は小さいが綺麗で、ひとつひとつの部屋は広いようだった。
夫妻と息子の三人暮らしの新山家の部屋は二階の角だ。外付けの階段を登って表札を確認し、ドアの横のアラームを鳴らすと、すぐにドアが中から開けられる。
「美佐子ちゃん? どうしたの?」
何度か顔を合わせたことのある、高校三年の新山亮二が顔を覗かせた。人懐っこい性格で、美佐子にとっても気安い相手だ。
「あの、これを届けに」
懐から財布を出して見せると、相手もすでに事情を聞いていたのか、合点がいったらしい。
「ああ、やっぱり美佐子ちゃんちに忘れたんだ。さっき電話来てたからさ。友だちに借りて、何とかしたみたいだけど」
「そうなんですか。何とかなって良かったです」
財布を渡すと、美佐子は肩の荷が下りた気がした。
「何かお礼がしたいけど、こんな夜に引き止めるのも何だしね。まあ、今度母ちゃんが何か持ってくと思うから。ありがとうね」
「どういたしまして。お休みなさい」
亮二のしゃべり方が光江に良く似ていることを内心ほほ笑ましく思いながら、手を振ってドアが閉まるのを見届ける。
「あとは、帰るだけさね」
静かな声に、美佐子は少し驚く。亮二から見て死角にいたらしい静見は、このアパートに着いてから今の今まで完全に気配を消していた。束の間、その存在自体、彼女の中から失せていた。
階段を降りていくその背中からは、またすぐに、安心させるような温かい存在感を感じる。
武道の世界に少しだけ足を踏み込んでいる美佐子は、『達人は気配を消すのも、強く表わすのも自由自在だ』という知識を記憶の中から引き出す。
自身も武道家である祖父が連れてきたのだ。静見も、そういう系統の人間なのかもしれない。
この二人だけの状況で、美佐子の興味は否が応にも静見に向かうが、それに気がついているのかいないのか、神代家の居候はふたたび少女の数歩後ろに移って歩き出す。
周囲に通行人はなく、車も極めてまれにしか通らない。この狭い道を出ようと、美佐子は、駅前通りに向かう出口を捜した。ほんの少しでも、人が通過できる幅でもあれば、抜けてしまいたい。空気がやけに重く感じられて、早くこの道を離れたかった。
遠くで悲鳴じみた犬の鳴き声がする。それさえも、こんな夜には不気味に響く。綺麗な半月に近い下弦の月も、鋭利な刃のようでやけに冷たく感じられる。
街灯のない場所では闇が完全に周囲を覆い隠している場所もある。そんなところを早足で抜けて、ようやく前方に駅前通りへの脇道を見つける。
少しほっとして、光の差し込むその角へ歩みを速めた。
異界のもののようなかすかなざわめきが、少しずつ現実のものへ、耳に確かに響くものへ変わっていく。
しかし、完全にそこに辿り着く前に足が凍りついたように動かなくなる。
角から、白いものが伸びていた。
女の腕――のように見えなくもない。だが、暗闇にあるにしてもそれは白過ぎた。とても生きた人間のものとは思えない。
さらに、それは増える。
二本、三本、四本、五本。
美佐子は自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。昼間に見たばかりのそれの正体を、忘れようとしても忘れられるはずがない。
化物はざわざわと角の向こうからあふれ始める。少なくとも、五体。
じっとそれを見ているしかない美佐子の手首を、あたたかい手が引く。デジャ・ヴを感じる余裕もなく、彼女は引っ張られるがままに走り出していた。
「まだ宵の口も浅いと言うに……」
静見の声は、この非常事態にあって異様なほど落ち着いていた。
二度目の遭遇であるのと落ち着いた静見の態度のために、少女にも少しだけ考える余裕ができる。
少なくとも、静見にはあれが見えるのだ。それに、ああいったものに遭遇するのも初めてではない様子だ。
「あの、あれは一体……」
答えは期待していなかった。だがその予想に反して、息一つ乱さず、静見は応じる。
「あれは、傀儡。妖や妖怪と呼ばれるものの一種だ。霊感があっても見えるとは限らないが、不幸にもお前さんには両方見えるのだね。まあ、神代家もそういう家系らしいが」
神代家は、もともとは宮司の血筋だった。かつては奇妙な現象に悩まされる人々の相談にのり、それを救ってきたという話は美佐子も聞いていた。
「このまま逃げ切れれば面倒はないが」
話しながら静見は細い道を選んで曲がり、走った。傀儡は一列になりながら、器用に両手足を動かして素早く追いかけてくる。人の限界を超えた速さだ。
昼間のようには振り切れそうになかった。静見ひとりならばともかく、美佐子の足では逃げ切れない。
何とか追いつかれないまま角を曲がり建物と建物の間の狭い隙間に入ったとき、目の前に壁が広がる。
――逃げられない!
背筋を、昼間にも覚えのある冷たさが駆け抜ける。
「あ……」
振り返り見開いた少女の目に、飛びかかる白い姿が映る。
「大丈夫」
美佐子の前に出ながら、静見が言った。
静かだが、力の込められた一言だった。落下すると同時に伸ばされた長く鋭い爪を前にしても、その表情に焦りや恐れはない。
ただ、いつもは眠たげに半分閉じられた目が見開かれ、傀儡の濁った目を真正面から見据えていた。
彼は軽く、右手を後ろに引く。
すると、飛びかかろうとしていた先頭のものも含め、一列に並んだ傀儡が破裂した。
血肉が飛び散ることもなく、奇怪な怪物は煙となって消える。その光景に凄絶さはないが、三体の傀儡が消滅するさまは衝撃的には違いなかった。
何が起こったのか。少女は目の前で起きたことを目を見開いて理解しようとするが、傀儡は待ってはくれない。
さらに一体、二人が立つ、建物と建物の隙間のなかに滑り込んでくる。
それが視界に入るなり、静見は右手の二本の指で相手をさし示した。
わずかに差し込んだ月光が、彼の傀儡に対する動きの一端をあきらかにする。指先から細く伸びたそれは、蜘蛛の糸にも似た、白い筋に見えた。
それが、傀儡の胴を両断する。
「あと一体か」
面倒臭そうに言いながら、静見は背後に庇った少女を一瞥する。
いまだ危険は去っていないが、美佐子は今はそれほど不安を感じていない。静見が傀儡というあの化物に対する対抗手段を持っていることがわかったからだ。
逆に、静見に対する奇怪な気持ちや好奇心は高まるが、それは不安を覚えるようなものではない。苦手ではあっても、決して悪人でないことはわかっている。何せ、実の祖父が見込んだ人物なのだから。
だが、その静見は危機感を強めた風にわずかに顔をしかめ、鋭く周囲を見渡す。
「もう一体はどこだ?」
気配を探るように目を閉じる。
間をおかず、声が響いた。
「上!」
静見の右手が頭上に伸びる。
美佐子が見上げたときには、白い煙が風に散らされていくところだった。
「……あ」
終わったんだ、と思い、思わず声が出る。静見も小さく息を吐いた。
しかし青年はまだ完全には警戒を解いていない。眠たげな目が、狭い隙間の出入口へ向けられる。
先ほどかけられた声には聞き覚えがあった。美佐子がそう思い返すより先に、声の主が姿を見せる。
白い上着に、ジーンズのズボンをはいた小柄な少女。
その人物は現れるなり大きな目をさらに見開く。
「あれ、美佐子ちゃんじゃん。デート?」
その声もことばも、この場にひどく不釣合いに聞こえた。
それでもその姿はある意味この場に相応しいかもしれない。美佐子にとって、傀儡とともに思い出されるのが転校生の姿だったから。
「桐紗ちゃん……なんで?」
桐紗へのことばは質問の体を成していないが、相手は気にせず、顔に苦笑いを浮かべたまま歩み寄ってくる。
「まあ、こんなところじゃなんだし、近くのお店にでも行かない? デザートの美味しいお店があるんだ。この辺にいるの、あいつらだけとは限らないしね」
「え、でも……」
早くこの場を離れたいのは確かだが、一応、静見の顔を見上げる。
美佐子はそのまま目を見開き、しばらく視線を動かすことができなかった。
「落ち着くのに、甘い物は有効だろうね」
静見が、その顔にほほ笑みを浮かべていた。もともと柔らかい印象の顔にその笑みが加わると、どこまでも優しく、包み込まれそうな印象を受ける。
笑顔を見たのは初めてだった。
しかし魅入られたように目を逸らせないでいる美佐子をよそに、静見はすぐに顔をそむけて表情を変える。いつもの何を考えているのかうかがい知れない表情。
「行こうか」
それでも、握ったままの手は、温かかった。