狭い洞穴を満たす冷え冷えとした空気を、押し殺した泣き声が震わせた。
天井に開いた大きな穴から射し込む、わずかな月明かりだけが周囲を照らす。その明りと影の境界線に、背の低い男が立っている。
見下ろす男の目が恐ろしくて、少女は静かに泣いた。
十歳にも満たないと見えるその少女は酷くやつれ、あきらかに憔悴しきっていた。桜色の可愛らしいワンピースも泥に汚れ、土の壁に端を埋めた鎖に縛られた両手首は痛々しく腫れている。
この男の機嫌を損ねないように、ぶたれないようにしないと――そう思い、少女は唇を噛み、必死に嗚咽を止めようとする。
しかしいくら止めようとしても身体は勝手に震え、のどの痙攣も抑えられない。
少女の努力や願いなど意に介さず、男は少女を殴った。
「やめてよ、お父さん!」
大きな声を上げるとよけいに叩かれ蹴られるとわかっていても、つい叫んでしまう。それが彼女にできる唯一の反応だから。
「うるさい、うるさい、うるさい!」
男は自分も泣いているような声音で怒鳴りつけた。
「お前のせいだ、お前が悪いんだ!」
お父さんのことばは、正しい。そう少女は思った。
――始まりは、少女が父親の上着に触れたときに『お父さん、一人で遊園地に行くなんてずるい』と口走ったことだった。
ただの、幼い子どもの言うことだ。そう片付けようとした両親も、持って出かけた物に触れた娘が正確に行き先の様子やそこでの出来事を言い当てることに、徐々に不気味さを感じるようになった。
それでも娘は言いつけを守り、家の外でおかしなことを口走ることはない。そうしていれば、少し変わった娘がいるというだけの家族の平和は続くはずだった。
しかし、『あの女の人、綺麗だね』『明日はあの人と一緒に海に行くの?』――そんな娘のことばから両親の仲には亀裂が入り、夫婦は間もなく離婚した。
母親の『こんな不気味な子ども、いらない』と言い残し逃げるように玄関を出る背中を、少女はしっかり覚えている。
少女の地獄のような日々が始まったのは、それからのこと。
庭に掘られた穴の中で鎖につながれ、食事は一日一回。家畜以下の扱いだった。
「お前さえいなければ、こうはならなかったんだ!」
憎しみをぶつける父親からは、強いアルコールの匂いがした。
いつもの通りなら、もう二、三発も殴ると拳を痛めてやめるはずだ――それだけを希望に、泣きながら少女は耐えた。父親はどうやら彼女を殺すだけの思い切りは持てないらしい。あるいは、ストレスのはけ口を失いたくないだけかもしれないが。
痛みで生理的な涙をこぼしながらひたすら時間が早く過ぎることを祈っていると、頭上から草を踏みしめるような音がした。
父親が動きを止める。実情がどうあれ、彼は世間に、円満な家庭を持つ男だと見せておきたいのだ。何より、他人に娘とのこの状況を知られることに恐れを抱いている。
「そこに誰かいるのかい?」
少女がここ数ヶ月聞いたことのない猫撫で声を発して、父親は天井の穴を見上げる。
途端に、その首が大きく傾いた。
真上を見上げるほどまで後ろに倒した首が、さらに倒れる。上下逆さの顔の中で妙に輝く焦点の合わない目を娘に向け、顔はそのまま、地面へと落ちた。
首の途中から頭の頂点までが最初に落ち、その上に身体が倒れ込む。
「お、お父さ……?」
目の前の光景が理解できず、少女は目を見開いたまま広がっていく血溜りとその中央に横たわる肉塊を凝視していた。
そのために気付くのが遅れる。穴に侵入してくる、異形のものに。
一瞬にも随分長い時間にも感じられる間を置き、気がついたときには、少女はそれを目の前にしていた。
白く細長い手足で身体を支えた、人間に似た存在。やつれた顔は、若い女のようにも老婆にも、般若のようにも見える。
少女は口をあんぐり開け、目も見開いたまま、それを眺めている。
怖いというよりも、テレビの一場面か何かを眺めているような不思議な気分だった。それがあきらかに彼女を傷つけようと鋭い爪が伸びた片手を振り上げたときにも、漠然とした、ああ死ぬんだ、という思いだけが頭に浮かんでいた。
長い爪が、喉に食い込んでくる。
冷たい。
その刺激に、意識がはっきりする。曖昧だった手足の感覚が戻ってくる。
「またか」
確かめるように声を出したときには、すっかり現実感が戻っていた。
十代半ばと見える、長い黒髪を高い位置で束ねた少女が身を起こしたのは、小高い丘の上にある小さな公園のベンチだ。いつの間にか寝入っていたらしく、空も地平線にわずかに夕日の余韻を残す程度で、大部分が夜闇に染まっている。
「ま、いいか」
何か不都合があるわけじゃないし、という調子で言い、白い上着のチャックを首もとまで上げて立ち上がる。丈が短めのスカートからのぞく脚には、少しだけ寒さを感じる。
ここはもともと大して人通りのある場所ではない。公園にもほかに人の気配はなく、木々に囲まれた暗い周囲は、静か過ぎて少し不気味ですらあった。
その中を歩き出そうとして、彼女はピタリと動きを止める。
さわさわと、緑の葉を抱く木の枝がざわめいた。少女の肌はそよ風すらも感じてはいないのに。
ざわめきがやむと、木々の間から音もなく、奇妙なものが歩み出てきた。
月光を照り返す、蒼白い肌。細い手足を地面につき四本足のように歩くが、その姿の不気味さのためか、犬猫より蜘蛛に近い雰囲気がある。
顔は苦悶の表情を浮かべた、髭面の男のものだった。
少女の唇の端が釣り上がる。
「やっぱり、この町は多いね」
言いながら、上着のポケットから小さな物を取り出す。手のひらに握りこまれたそれは、円柱形の木片だった。
「さあ、流牙……お前の本当の姿を思い出してくれ」
まるで木片にささやきかけるように言う。
その声に木片は応えた。少女の手のひらの上で、木片は植物が育つのを早回しにしたかのように長く伸び、小型の薙刀にも似た、柄の長い短刀となる。柄には、黒く銘が彫り込まれていた。
短刀が全貌を現わす一呼吸の間にも、木々の間から躍り出た奇妙な存在はじりじりと間を詰めている。
「行くよ」
短刀をかまえ、少女は鋭く息を吐く。
「傀儡」
それを合図にしたように、蒼白い怪物は手足で地面を蹴った。腕と脚の細さに見合わぬ力で、宙高くに身を躍らせる。
落下の速度を乗せた鋭い爪の先が、見上げる少女に真っ直ぐ向けられた。
「シッ」
迎え撃つ少女は息を吐き、同時に右手の短刀を振り上げる。さほど力を込めていないような、ナイフで柔らかいバターを切るに似た軽い動き。
その動作の軽さに似合わぬ威力で、短刀は傀儡を切り裂いた。
頭から股まで一直線に両断された身体は、断面をさらす間もなく白い煙を噴き出し、その中に溶けたかのように消えてなくなる。
ふう、と息を吐き出す途中で、少女はまた、気を張りつめる。
――まだだ。まだいる。
異様な、彼女にとっては馴染み深い気配を探りながら、開けた場所へとゆっくり歩き出す。背中にまとわりつくような視線が追って来るのを感じ、わずかに眉をひそめる。
「一……二……三体か」
歩みを止めて振り向く視界に、カサカサと闇から這い出してくる姿が三つ、映る。
身体ごと向き直り、少女は短刀を左脇の下、先端で地面を掻くような形にかまえた。大きく上へと振り抜くかまえだ。
――相手を充分引きつけ、一気に片付ける。
そう覚悟を決める。
だが、彼女の狙いは外れた。
三体の傀儡は一歩踏み出そうとした途端に小さな爆音を発し、同時に煙となって闇に溶ける。少女が手にした短刀は、少しも触れてはいないというのに。
それに一瞬呆気にとられたものの、少女はすぐに納得の表情を浮かべる。
「そうか。傀儡がいるんだから、当然いるよね」
見極めようとするかのように目を細め、視線を投げかけた先に、月を背負って歩み寄ってくる人影があった。
「傀儡狩りが」
深くなっていく闇にかすかに血のそれに似た異質な臭いが混じり、風に流されていった。
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