Day 19 世界の壁

 吹きすさぶ砂混じりの風のために、風景は左右にブレて見えた。もっとも、速い血色の雲も瓦礫の大地も、直視して面白い風景ではない。
 ただひとつ、宙に浮かぶ扉のごとき白く半透明な長方形の膜だけは、明るさを感じさせる存在だった。それは左右にブレて見えても荒々しさや雑然とした印象はなく、いっそう神秘的な雰囲気を増すばかりだ。
 超小型探査艇を頭上に従えた少女が風に嬲られながら、確かめるような足取りで長方形に近づいた。近くでのぞき込むと、長方形の下の地面に薄い板のような金属製の装置が埋め込まれていた。装置により、白いドアの映像が投射されているのだろう。
『これが目印、ってわけか。いよいよ、この世界とおサラバするときが近いようだね。忘れ物はないかい、ミュート?』
「大丈夫だよ」
 少女は苦笑して、ふと周囲を見回した。その黒い目に、何者も映るはずはない。追いかけてくる者も、同じ道を行く者もあるはずがない。彼女の行く先を見届けられるのは、ただ彼女のみ。
 ふたたび小さく笑って、アイス・ミュートは足を踏み出した。
「行くよ、ルータ」
『待ってよ!』
 慌てて探査艇が追いかけ、白い長方形に触れる。
 触れた部分から消滅するようにして、ただふたつの意思のある姿は消え去った。

 雲ひとつない空は闇に染め上げられ、中心高くに、小さく浮かぶ星の姿は、地球に似ていた。海が赤く、陸地が黒く染まった地球。
 地上には、上空とは対照的な色が広がる。白とわずかな青で構成されたそれは、流線型の形がよく目につく、城のようにも見えた。周辺にはほかの建物などはなく、闇が地平線をも曖昧にしている。
 しばらくの間茫然とそれを見つめていたものの、ミュートは、それが何なのかは理解していた。
 そして、彼女以上にルータが。
『これはやはり……シグナの中心部か。ステーションにあるものとは違うものの、構成は酷似している』
「聞いた話は本当だったみたいだね」
 少女が目を向けた先に、白い城の高い位置にぽっかり口を開けた空洞があった。端にドアの残骸らしきものをわずかに吊るしたその黒い内側に、白い顔が浮かび上がる。まるで、仮面のようにも見えた。
「やっと来たようだね」
 闇をそのまま羽織ったような、黒いフードにマントの姿が抜け出してくる。それは軽々と白い凹凸を跳び移りながら、ミュートの十歩ほど前に降り立った。
「じゃあ、決着をつけようか。いつでもいいよ」
 軽く右手を持ち上げ、気楽な調子で告げる。
 ミュートは無言のまま相手の唐突なことばを受け入れているが、ルータは少し、慌てた。
『《時詠み》……待ってよ、確認くらい、させてくれてもいいんじゃない?』
「ここまできたら、もうやることは決まってると思うけどね」
 相手を一瞥して、フードの下で笑う。
「きみたちは、ボクを倒さなければならない。なぜなら、ボクがこの世界の壁だからだ。……世界が滅ぶ寸前、シグナはASで、死の間際のボクを取り込み、具現化させた。ボクの本体はすでに死んでいる、このボクは幽霊みたいなものさ」
『それがどうして、世界の壁に? それになぜ、我々は……
「世界の崩壊で、その壁も崩壊しかかっていた。何の偶然か、ASでボクを具現化する際に、きみたちの世界のシグナとこっちのシグナがつながったんだろうね。それもすぐに、この世界の終わりで切れるはずだった。でも、ふたつの世界の調整者が、この世界を利用することにしたのさ。壁としてボクを選んだのも彼らだ。嫌がらせだろうね」
 彼はむしろ、どこか楽しそうに、それでもかすかな悲しみを秘めた微笑を浮かべる。
「おかげで少々苦労したよ。今のボクはあまり、シグナのASから離れることができなくてね。まあ、ASで分身を飛ばしてASをきみたちに渡したり、調整者を足止めしたり、シグナのサーチアイを利用して劇場を包囲する立体映像や音声を流す程度のことは可能だったけれどね」
 今度は少しいたずらっぽく、口の端をあげた。
『彼の言うことは事実だよ』
 どこからともなく響くのは、ルータのものとは少し違う声色の電子音声。
『私にはわかっている。きみたちが《時詠み》を倒せば世界の壁は破壊され、皆、元のVRDに戻れるだろう。そしてこの世界は仮想世界から切り離される。ただ、放っておくときみたちのほうのシグナにここでの記憶が残ってしまうから、それは消さなきゃいけないけれどね。シグナだけじゃない、ここのことはみんな、忘れてしまったほうがいい』
「でも私は、覚えていたい」
 ポケットからナイフを取り出し、ミュートは狙いをつけるように、切っ先を《時詠み》に向けた。
「大人しく、倒されてはくれないんだね」
「防衛本能ってやつさ。それに、このほうがラスボスっぽいだろ?」
 《時詠み》が答えて、白い足場を蹴った。
 袖口で、チェーン付きスパイクの鋭い切っ先が輝いた。ミュートは動かず、それを迎え撃つ。
 《時詠み》の防衛本能は、いわゆる世界の壁としてのセキュリティ・システム。本人やシグナにもどうしようもないことなのだろう。
 上空に退避しながら、ルータはわずかな間に考え続ける。
 調整者たちはどうなったのか。船を失ったとはいえ、それで彼らも全滅したなどとは思えない。だが、この壁を壊すための儀式を止めに来ないということは、彼らは地球やこの星――おそらく月――への興味を失ったか、少なくとも、彼らが行っていたここでの任務を終わらせるつもりなのかもしれない。
 そして、壁を壊すということは、どういうことなのか。
 壁を壊さなければ、元の世界には戻れない。今まで出会ってきた人々、ロズたちやティシア、ユキナにヒルト。彼らも帰してやりたい。しかし、残されたこの世界の人々はどうなる? 死んでしまったティシアの劇団の者たちは?
『すべてのヒトの運命に責任は持てないし、そうする必要はない。それに、この世界の惨状に責任を感じるべきはきみたちではなくて、私たちだ』
 シグナが文字通りルータの思考を読む。
 金属音が薄い空気を震わせた。ギリギリまで引き付けてミュートが放ったナイフを、黒ずくめの袖から放たれたチェーンが弾く。シャララ、と金属の擦れる音を鳴らしながら、スパイクは弧を描き、新たな2本のナイフを握る少女の背中をめがけて伸びた。
 ミュートは2本のナイフを刃と柄でつなぎ、ASで固定した。身体ごと振り向き、それで鎖を絡めとる。
 いくらASを持っているとはいえ、どんな強化が成されていようと、鎖の形状をしている以上、相応の動きに限定される――そう、少女は読んだ。予想に違わぬ動きで、チェーンはナイフを封じる。
 それを持ったまま、左手で4本目のナイフを取り出しざまに投げ放つ。チェーンの一端を持つ《時詠み》の動きも、予想とかけ離れてはいない。
 しかし、ナイフを転がってかわし、隙なく立ち上がると、彼は意外な行動に出た。
「ぅおっと」
 前のめりに地面に打ち付けられそうになって、ミュートはナイフを投げ捨てようとしてそれができないことに気がつくと、とっさに上体を引き、体重を後ろにかける。数歩前方では、チェーンを手に巻きつけた黒ずくめが笑っていた。
「力尽くの勝負に出るつもり?」
 驚きを含む問いかけに、
「こっちのほうがわかりやすいだろ? どっちがより、強いか」
 相手は、さらに力をこめることで答える。
 身体を持っていかれそうになって、ミュートは力で対抗する。腕力ではなく、ASの力。どちらがよりASの力を引き出せるかの、純粋な勝負。
 はた目には綱引きでもしているような格好だが、ルータもシグナも、2人の間の引力のせめぎ合いを捉える。
 《時詠み》は試しているのだ。少女の力を。それが、どこまで通用しそうなのかを。
「そんなに強い、なら……きみが目的を果たせばいいじゃない」
 冗談とも本気ともつかない様子で、汗を浮かべた笑顔を歪め、少女が言う。
「3つのパターンでも、きみが一番、オリジナルに近いタイプだよ。それに、ボクはともかく、きみの世界の《時詠み》はどうだろうね? まあ、どうにしろ、同じことだけど」
 《時詠み》は汗ひとつかかず、声にもよどみがない。それは余裕か、それとも、本来の肉体を失っているがゆえか。
 永遠にも思われるような時間を、ふたりは、純粋な力のぶつけ合いをしながらのにらみ合いに費やす。
「この世界じゃ、成功、しなかったんだね……
「きみたちの世界の未来と同じとは限らないさ。過去も、別物かもしれない」
 ミュートの右手に、力が宿る。
「だったら……そんなきみには負けるわけにはいかないな」
 波のように揺らいでいた力の放出が、ひとつの高い峰を描く。一転に集中する力。鎖と接触する刃の一部が鋭く輝き、鎖が切り裂かれた。
 一瞬、そちらへの集中のために相手の引き付ける力への対抗が薄れる。引き寄せられる力を利用し、ミュートは跳んだ。
 逆に鎖を千切られた《時詠み》には、後ろへの衝撃が襲う。彼は転がって受身を取ろうとする。そうしながらも、彼の目は、宙を舞う姿を捉えている。  空中では体勢を変えることが困難なので、回避行動がとりにくい。それを計算に入れ、指先からレーザーを放つ。
 それは、少女の右手の甲に弾かれる。重力を歪曲しての回避。
「こっちのほうが、命中率は高い」
 左手の指先を軽く折り曲げ、下に向ける。それぞれの指先から発射された不可視の光線が5本。発射に要する力も大きいが、当然、多数の攻撃のほうが回避は困難になる。ASを使うにも、より多くの計算力が必要になるからだ。
 結果、5本のうちの4本までは防がれ、1本は左腕を焼いた。
「お見事」
 言って立ち上がる相手に、少女は着地と同時に突進。怪我を治される前に追い詰めなければ意味がない。
 だが、何度もASを使うことは大きな消耗も意味する。長期戦に持ち込んだり大技を何度も使うような余裕はなく、ミュートはナイフを捨て、握りしめた両手に出現させた、光の剣にすべてを託した。
 《時詠み》が使うのは、黒くうねる鞭。
「さあ、死にかけのボクぐらいそろそろ倒してくれないと、先が思いやられるよ」
 挑発するように言って、迎え撃つ。
「安心して逝けるように、すぐに倒してあげる」
 無駄な力は使わない。ミュートがするのは、相手に突進して斬る。それだけだ。
 蛇のような鞭が足もとを薙ぐが、それを見もせずに避け、頭を潰そうと振り下ろされる上からの攻撃をかいくぐり、何かに導かれるように、短くも長い敵への道のりを駆け抜ける。漆黒の目はただ前方にしか向けられていない。
 あと一歩まで近づき、剣を振り下ろす。振り下ろす瞬間、刃は巨大化した。
 ――光に消える瞬間、フードの奥で、少女と同じ色の目が笑っていた。

 世界が淡い光に包まれると同時に、ミュートは毛布にでも包まれているような、妙なぬくもりを感じていた。
「後始末は私に任せてくれ。それと……彼のことを頼む」
 どこか遠くで響く、アルファの声。
『もうひとりのシグナによろしく』
 シグナの声は、もっと遠くに聞こえた。
 世界とのつながりが切れる。その寸前、少女が、もうひとりの少女に頼みごとをした。
「これでいいんだろ、調整者よ」
 別の気配が消えるのを感じ、誰にも聞こえないのを知りながら、ミュートは投げやりに言う。
「さあ、お前たちがばら撒いたASでお前たちがどうなるか、観察し続ければいい」

 シグナのVRD中のデータが改竄されたのは、直後のことだった。

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