-症例1-
炎が揺れ、闇の中に立つ少女を紅に照らし出していた。幼い少女の顔には、表情は浮かんでいない。ただ、モルモットを見つめる研究者のように、無心に燃え上がる建物を見つめている。
炎が燃え盛るゴウゴウという音に紛れ、何人かの人間の声が聞こえていた。少女の名を呼ぶ、悲痛な叫び声が。
異常を聞きつけた近所の住人がやってくるまでの間、その少女は、1人立ち尽くしていた。
「まったく、むごい事件もあったものだねえ」
朝の挨拶を交わした後、技術主任のマリオンは、早朝からいるスタッフたちに話を振った。技術スタッフの大半はそうだが、この時間帯にいるのはほとんど住み込みの者だ。もっとも、技術スタッフは半数以上、昨日のゼクロスの新メインドライヴの事件やその後の再積み替えで疲弊し、休みを取っているが。
「でも、犯人に関わる証拠は一切ないんでしょう? 様子がおかしいって言うけど、まさか、生き残った十歳の女の子が犯人なわけないでしょうし」
惑星オリヴンの中心都市ベルメハンの上空に浮かぶラボ〈リグニオン〉。今日、その監視システムのオペレーター席に座っているのは、エイシアではなかった。休暇をとったエイシアの代わりに、孤児院の手伝いをしていたミライナが、久々に姿を見せている。
コンソールの上に置いたコーヒー入りの紙コップに手を伸ばしたところで、彼女はチェックモニターに目をやり、小さく声を上げた。それを聞き咎め、マリオンは血相を変える。
「どうした、異常事態か!?」
「大げさな……夢を見ているだけよ。悪い夢じゃないといいけど」
〈リグニオン〉全体を監視すると同時に、チェックモニターはそれに接続された宇宙船中枢システムのゼクロスの状態を監視している。
「夢か……」
夢というキーワードに、マリオンは、ここしばらく惑星ネットワークを流れているニュースを思い出した。
「エルソンの少年が2週間眠り続けているとか、夢で啓示を受けたとかで滝に飛び込んだとか、そうゆう事件が増えてるな。夢をコントロールする装置でもできたか?」
「そういうシステムはすでに開発されているよ」
と、ことばをはさんだのは、白衣の青年、カート・アスラード博士だった。愛読の週刊誌を手に、歩み寄って来る。彼自身が設計した新開発ドライヴが全壊したのでショックを受けていたが、すでに立ち直ったらしい。
「冬眠装置の副次的機能として昔からあったが、それも研究開発が進んで、今ではバリキュウムのマイクロチップのようなもので、いつでも冬眠状態で好きな夢が見られる物を開発中らしい。試作品はすでにできているそうだ」
『……でも、それが世の中に出回っているとは考え難いのでしょう?』
眠たげな、それでも美しい声がスピーカーから流れた。すでに持ち場についているスタッフ全員が、申し合わせたかのように同時に顔を上げる。
「おはよう、ゼクロス。気分はどう?」
夢のこともあって、ミライナが少し心配そうにきく。
『大丈夫です。なんともありません。心配しないで。お願いですから……』
気分はともかく、機嫌はあまりよくないらしい、と、アスラードは思った。何度も同じことを聞かれるので、飽き飽きしているのかもしれない。
とりあえず、彼はそのことには触れないことにする。
「しかし、最近の夢にまつわる事件は確かに異常だな。病気、というのはどうだ?」
『心の病は専門ですが……。エルソンにまで症例があるとなると、本当に感染力がある病気の可能性もありますね』
「症例の分布を考えると、オリヴンの取引相手の惑星に広がっているように見えるんだが……。それでいて、オリヴン内ではほとんどベルメハンだけだな」
週刊誌をパラパラとめくり、アスラードは肩をすくめた。
「とにかく、警察に任せるしかないか……」
-症例2-
大きな手。いつも抱き上げてくれるあたたかい手。
だから、大好きだったのに。なのになぜ……?
大きな手が、彼女を殴りつけた。痛みが、頬にじんわりと伝わる。熱い。彼女は、わけもわからず泣いた。
誰かが、うずくまる少女の耳にささやきかけた。
きみを傷つけたのは、あいつだよ。一緒に仕返しをしよう。
――殺せ――
ふと顔を上げた少女の視界に、病室のドアを押し開ける警官の姿が入った。大体、少女の父親と同じ年代くらいの男性だ。
少女は、憎しみに任せ、果物ナイフを手にした。ベッドの毛布が遮っていて見えないのか、警官は何も気づいた様子なく、ベッドのそばに歩み寄って来る。
手を伸ばせば、触れられる距離だ。
そう、あとは右手を伸ばすだけでいい……。
「警部は全治2ヶ月の怪我を負った。少女は夢で指示されたと言っている、か」
通りでもらった新聞の号外を読み終えると、元ギャラクシーポリスの刑事、ロッティ・ロッシーカーは、溜め息混じりに言って背もたれに寄りかかった。
『やはり、夢にヒントがあるとお考えですか』
この宇宙戦艦の中枢頭脳、ランキムが乾いた声を響かせた。今となっては、ロッティの唯一の相棒。
「ああ……それにしても、不可解な事件だな。一体どういう条件下で、なぜ妙な夢を見るのか?」
『このオリヴンで、電波や音波等の異常は考えられませんし、すでに関係当局も確認済みです。もしかしたら、自然の摂理かもしれません』
オリヴン内の相談所や精神病院で、奇妙な夢を見たという相談件数が子どもを中心にここ一週間のうちに十倍以上に跳ね上がっているという。相談していない者も合わせれば、さらに増加するだろう。
同時に、コンピュータ関係のトラブルが多発しているというのも、ランキムは見逃さなかった。
「自然現象じゃ、惑星外にも広がるのはおかしい。とりあえず発生はここみたいだが……ウイルスか?」
『可能性はあります。人間と我々の共通の病は今までにも皆無だったわけではありません』
ロッティは、しばらく前にゼクロスが寄生された粘菌の話を思い出した。詳しいことはともかく、当時〈リグニオン〉が治療のための情報を求めてあちこちに事態の話を流していたため、どんないきさつがあったのかは知っている。
「よし……一旦〈リグニオン〉に行こう。生物学者を紹介してもらえるかもしれない」
彼はそう決断し、指示を下した。
結局犯罪捜査の真似事をしている自分に対し、苦笑しながら。
バタン、と乱暴にドアが開かれ、そして閉じられた。モニターに向かっていた青年は苦笑し、入ってきた人物が口を開く前に椅子ごと振り返る。
「やあ、ミューノ博士。お元気そうで」
「どこが!」
ミューノは、相手のことばを切り捨てた。その目の下にはくっきりとクマができている。
「どういうつもりです、ニアトリンどの。我々を睡眠不足で殺す気ですか」
「そいつはすまないことをした」
ニアトリンは肩をすくめた。その整った顔に浮かぶ申し訳なさそうな表情は、どこか芝居がかっているが。
「ワクチンを出しておこう……運が悪かったとしか言いようがない。ルソンはしかにかかったことはなかったんだね」
「はしか?」
「ああ、それがデータの媒介さ。色々実験しているが、夢にうなされるくらいで、かかっただけでは死にいたることはない。空気感染だが6種のパーツがそろわなければ発生しない」
毒気を抜かれたような調子のミューノに、ニアトリンはモニターの映像を切り替え、ルソンはしかの病原体の拡大映像を映した。改造された、ウイルスの一種。
「それで、何を企んでいのです?」
ワクチンを受け取って気が済んだのか、それとも好奇心が勝ったのか、ミューノは目を輝かせてモニターをのぞき込んだ。
ニアトリンは、ニヤリと笑う。
「何もしない。何でもできるからだ。今は、それを見せつけてやるだけでいい」
繰り返す悪夢に、少年は疲労していた。
こんな夢、見たくない。お願い、夢を消して。
その時、優しい声が告げた。
湖の上のボートにおいで。そこに、必要としているものがあるから。
そこに、悪い夢を消してくれる鍵があるから……。
『ロイン、大丈夫ですか? ロイン……』
心配そうな、優しい声。夢で聞いた声にそっくりだ、と、少年は思った。
目を開けると、見覚えのある顔がいくつものぞき込んでいる。ホーメット先生、〈リグニオン〉から駆けつけたらしいミライナとキイ・マスター、孤児院の仲間たち。それを見上げるロインの頭は、不思議とすっきりしていた。
『ロイン、大丈夫ですか? 心配しましたよ』
姿がなくとも、その声で存在がわかる、少年たちの友人、ゼクロス。どこか疲れたような声に、ロインはうなずいた。
「うん……大丈夫だよ、ありがとう」
言って、身を起こす。そのしっかりした調子に皆ほっとした様子だが、当の本人は、それよりもベッドの横にある窓の外が気になった。林の向こうからわずかに見える、陽を受けて輝く水をたたえた、湖。
ロインはためらいがちに口を開いた。
「ねえ、ゼクロス……湖に、ボートが浮かんでない?」
『ボートですか?』
困惑した声。だが、すぐにその調子が変わる。
『はい、あります……あれは一体? 誰も乗っていないようですが……』
あの夢は、やはりただの夢ではないのだろうか。不審を抱かれるのは嫌だが、ロインは決意した。自分のことばに自信がないまま、それでも包み隠さず、夢の中で言われたことを皆に説明する。
それを聞いた皆も、半信半疑だった。だが、考えていて解決する疑問ではない。
「とにかく、行ってみよう。ゼクロス、準備だ」
部屋の隅で話を聞いていたキイは短く言い、部屋を出て行った。それを、子どもたちが期待の目で見送る。キイは、皆にとって頼りになる姉、というより、兄のような存在だった。
ボートの上には、ワクチンが山積みにされていた。間もなく駆けつけたランキムとゼクロスの解析によりその組成が明らかになり、同時に病の媒介となったウイルスもはじき出される。
「とにかく、ルソンはしかにかかったことがない人は全員ワクチンが必要ね……」
ミライナも該当するらしい。彼女は苦手な注射器を前にウンザリした様子である。
『成分はわかりましたので、ASを使えばいくらでも精製できますよ』
ゼクロスは自信満々でそう請け負ったが、それを周囲の者たちが承知するはずはなく、ASによるワクチン精製はランキムにのみに任されることになった。すでに病院や医学研究所などにデータが送信されているため、すぐにワクチンが底をつくような事態は避けられるだろうが。
「それで、ゼクロスの薬も作れるの?」
不意にロインが口を挟むと、ゼクロスはギクリとした調子だった。
『なぜ? あ、いえ、大丈夫ですよ、ワクチンのジェル内に入っているデータが私たちにとってもワクチンになりますから……』
『我々は人間と違ってはしかにかからないから、免疫がないからな』
ランキムがポツリと付け加えるのに、ロッティが驚きの声を上げる。
「ランキムも妙な夢を見ていたのか?」
『はい。意味のない、ただの夢です』
いつもながら、ランキムは素っ気なく答える。
ワクチンにより今回の件は解決されるだろうが、悪夢を見なくなるわけではない、と、ゼクロスは言った。夢には深層心理が映し出されることが多いとも。
『だから、ウイルスに冒されなくても、悪い夢を見るときは見るものですよ……』
-症例3-
昨日のメインドライヴ騒動の反動で、今日は休みを取った者が多い。〈リグニオン〉は朝食時をかなり過ぎた現在も、のんびりした雰囲気だった。
そんな退屈な中でもゼクロスは辛抱強く待っていた。そして、彼女は変わりなく、今日もこの時間帯にやってくる。
『遅いですよ、キイ』
「道が込んでいてね」
『嘘つき』
キイは、ベルメハンのホテルに泊まっていた。いつも大体この時間帯に来て、深夜に帰るというのが日課になっている。
『皆、私が惑星ネットワークから切り離されているのに、ニュースの話をするなんて無神経ですよ』
「まあまあ、もう少しの間だから」
不満を洩らすゼクロスに、壁に寄りかかって話し相手になっているキイは、苦笑交じりに応じる。
『しかし、私が言うのもなんですが、過保護だと思いませんか? それもこれも、所長がああだからこうなるんですよ』
「ま、所長にとっては目に入れても痛くないってくらいだろうし」
『まさか。いくらなんでも無理ですよ、それは』
「いや、これはものの例えで……」
2人は、時間の許す限り他愛のない話を続ける。エイシアから話は聞いていたものの、ミライナはその楽しげな様子を眺めて、複雑な気持ちになる。
こんな日が、いつまでも続かないと知っているから。
『そういえば今朝話題になっていましたが、キイは妙な夢、見ませんでした?』
「何を期待しているんだ。しかし、夢か……」
考え込むように、頭をたれる。
「昔、ある惑星を支配しようとした連中がいてね。そいつらは、あらゆる方法で人々を操ろうとしたんだが、そのなかに、粘菌ってのもあったな」
『やめてください、粘菌は……』
「いや、それがかなり小さな種類のもので、細かく分解しても細胞が元に戻ろうとするんだとさ。それを利用して、ウイルスと掛け合わせて利用した事件というのがあったんだが……オーサー教授にでもきいてみよう」
惑星ネットワークからは切り離されているものの、ゼクロスは生物学者のクレイズ・オーサー教授のチャンネルを利用することができた。しかし、確認するまでもなく、彼は教授が現在自宅にいないことを知っている。
『教授なら、大学の研究室でしょう。行くなら早く取り次いでもらえるように、合言葉をお教えしましょうか?』
どこか自慢げに言う。
キイは、意地悪く、至極真剣な顔で首を振った。
「きみと教授だけの秘密に割り込むのは気が進まないからな。じゃ、また後で来るよ」
言い捨てて、ワープゲートに向かう。
『えっ、待って、そんな、キイ~』
ゼクロスの嘆きの声にも、彼女は振り向かなかった。
その優しげな女性は、「私があなたの母のようなもの」と言った。
そして、「あなたの歌声は番人を癒すでしょう。その翼はすべての空をあなたの物にする」と言った。
「美しい羽根は平和をもたらす」と言い、彼女は彼を撫でた。
彼が生れたことをその人々は喜び、彼はその喜びが嬉しかった。
彼が人々の役に立つことを、彼も、人々も疑わない。
しかし、人々は喜びながら、彼の翼を切り裂く。引き裂かれる痛み。
――私が、あなたたちにどんな悪いことをしてしまったのですか……?
役に立ちたいと思っていたのに……どうして……
「ゼクロス。ゼクロス、大丈夫か?」
マリオンとミライナがのぞき込んでいた。その向こうに、異変を察知して走り寄ってくるバントラム所長の姿が見える。
ゼクロスは茫然としていた。ことばを返さなければ皆よけいに心配するだけだと知りながら、すぐには返事ができない。
だが、やがて我に返る。
『……夢を見ていました……』
「ああ、うなされていたぞ。大丈夫か?」
『ええ……怖くはないのに、悲しい……それに、懐かしいような、不思議な夢です……大丈夫、心配ありません』
特に不安も精神的なダメージもないようだが、所長らは、まだ夢を見ているような調子が気になった。それに、夢にまつわる異常事態のこともある。
とりあえず、その夢の一連の事件が他人事ではなくなった〈リグニオン〉のスタッフたちは、キイが戻ってくるのを待った。キイは合言葉なしでもすぐにオーサーに出会えたらしく、昼過ぎにはワープゲートに姿を現わす。
昼食代わりらしいホットドックを抱えた彼女は、スタッフに注視され、首を傾げた。
「何かありました?」
マリオンやミライナらも、コンソールの上の皿にサンドウィッチを並べていた。バントラム所長を含むスタッフ7人が、ミライナの周囲、つまり監視モニターの周囲に椅子ごと移動している。
キイも、何があったか大体予想がついている様子で、所長らのもとに歩み寄る。
「ああ、夢の事件が他人事ではなくなったよ」
まずそうにコーヒーを口に運んでいたバントラムが渋い顔で説明した。キイはそれを、やはりそんなところだろう、という表情で聞いていた。
「ゼクロスは敏感だから、ASを通して誰かの夢と共鳴した可能性もあるが、前の粘菌のこともあるからなあ……」
『……そんなの、関係ないですよ』
マリオンのことばに、ゼクロスは元気なく反論した。
『どうして私ばかり狙われるんでしょう。AS使いは他にもたくさんいますし……宇宙船だって、ランキムやデザイアズだって……』
すねたように愚痴を洩らすのに、皆は苦笑した。実際なぜ彼が狙われるのか、その理由は彼自身もわかっている。数日前にオリヴンに滞在しているミューノ博士が、ニアトリンに言われた理由だ。
キイは肩をすくめ、一言で答えた。
「1番騙しやすいからだろ」
『そんな! 私ほど疑い深いのも珍しいはずですよ』
どこが、と、周囲ものたちが異口同音に突っ込みを入れる。それでさらにすねたのか、ゼクロスは何かぶつぶつ言うと、黙り込んだ。
それをよそに、キイはオーサー教授のもとに行って来た結果を報告する。
教授によると、粘菌を飲み水に混入した事件などもあるという。〈リグニオン〉が最近開発したバイオセルαに使われているジェルのように、データを蓄積するのに利用できるものも多い。動くデータバンクだ。脳に寄生するのを悪用した事件も多いが、医学分野ではその性質を利用した手術も研究中だという。
キイの言っていたように、分解されても元に戻ろうとする種類も多く存在する。ウイルスと合成できるような、小さなものも。それ自体は、非常に原始的な生物だ。
生物学は専門外であるものの、話を聞きながら、一同は考え込んでいた。その時、コールトーンが響き、ミライナが通信機のパネルを叩く。
「はい、こちら、ラボ〈リグニオン〉……」
と、応じるなり、彼女は黙り込んだ。その顔色が変わる。
『どうしました?』
何か嫌な予感がした調子で、ゼクロスが気がかりそうにきく。
ミライナは我に返ったように顔を上げた。
「それが、孤児院で今朝からロインが目を覚まさないって……」
〈リグニオン〉のスタッフたちは、顔を見合わせた。
結局のところ、それは夢に始まり、夢に終った事件だった。
しかし、悪夢はすべてのものの中で終ったわけではないと、キイは知っている。ワクチンはすぐにベルメハンと、その住人と接触した者、取引先の惑星に配布されるだろうが、それでも目覚めない者がいるだろう。時が来るまでは。
それを、別の意味で、ゼクロスも知っていた。
蔑まれて、傷つけられて。
それでも、彼は役に立ちたいと願った。あの人のためにも……。
それなのに、なぜ?
なぜ、泣いているの?
なぜそんなことを言うの?
あなたの笑顔が見たかった。
あなたに撫でてもらうために、人々の言う通りにした……。
だから、
だから、人殺しなんて言わないで……
昼間とは違い、深い悲しみと喪失感のなかで、ゼクロスは意識を覚醒させた。時は、深夜だ。ラボの内部は薄暗いオレンジの光に満たされている。この時間帯は、何かを開発中か修理中の時以外、スタッフがいることは珍しい。
『……うっ……』
気持ち悪さと感情の波に、嗚咽を洩らしそうになる。涙が出ないのを不便に思うは、今に始まったことではない。だが、彼はその感情を抑え込んだ。
ラボに人間の姿はない。しかし、普段はほとんど埋まったことのない、〈リグニオン〉第2ゲートが埋まっていた。ロッティとともに一夜の宿を借りた、ランキムだ。
『悪い夢を見るときは見るもの、か……』
ゼクロスが再び眠ったのを確認して、ランキムはつぶやいた。ASを得る前はそこまで周囲の感情の流れに敏感ではなかったが、今の彼には、それがわかる。ASを得て、彼は色々なことを知った。キイやゼクロスが時に他人の心を見抜いたような様子を見せていた理由も。
いま、彼のそばにある意識の気配はひとつ。その、あたたかで柔らかな気配は、決して不愉快ではなかった。だが、気配に潜む悲しみと痛みに、彼は思う。
いずれの日にか、その記憶のなかに潜む悪夢から解放されんことを――。