大陸の中でも魔法文明時代の遺跡を多く残す神聖フィアリニア王国に、ホウゼンという町があった。旅人たちの間では、神秘的な風景を誇る町として知られてはいるものの、首都圏の住人たちの口にその名がのぼることはまれである。
それも、ホウゼンの位置を考えれば、納得のいくことだった。ホウゼンは、人里離れた山間の遺跡を中心に造られた街なのだ。道とも言えないような獣道を分け入っていかなければ辿り着くことはできない。
旅人の中でも、ここに踏み込む者は物好きなほうだろう。
内心苦笑しながら、それでも一風変わった容姿の吟遊詩人は、ホウゼンを訪れたことを後悔はしていなかった。
明らかに人の手の入った造形の石の柱が、天を支えるようにして、等間隔に何本もそびえている。同じフィアリニア国内の石柱林にも似ているが、石柱林の柱は灰色で、いくらかひび割れ崩れているのに対し、こちらは黄金色に輝き、傷ひとつ見えない。
柱だけでなく、かつては水が流れていたらしい溝やその上を渡る橋、低めの塔に、宮殿らしい建物などが並ぶ。煌びやかだが、人の姿はなく、どこかはるか歴史の彼方に過ぎ去った過去の寂しさを感じさせる。朝日や夕日に照らされる時間帯はますます美しく、寂しく思える風景だろう。
人々が暮らす街は、それを眼下に望む位置に広がっていた。人口も少なく小さな町だが、露店が並ぶ大きな通りは賑わい、子どもたちが楽しげに駆け回っている。
吟遊詩人は通りを歩き出し、店を眺め始めた。
さりげない、旅人の行動のつもりである。しかし、その旅装、背負った竪琴と細工の美しい槍、何より、ラベンダー色の長い髪に緋の月のごとき目が、町の外の世界からの人間であることを如実に示している。
神話の世界からの旅人のような姿に、道行く者は足を止めた。遺跡の風景に似合う、何とも神秘的な姿ではないか――人々は、そう噂しあう。
しかし、当の本人は周囲のざわめきに気がついていないのか、川魚を売る露店の前まで来ると、穏かなほほ笑みを顔に浮かべて口を開く。
「近くに宿屋はありませんか? できるだけ、安いところだといいんだけど」
呼び込みをしていた店主はようやく目の前の人物に気がつくと、目を丸くしてから、慣れた様子で、日に焼けた愛想笑いを向ける。
「ああ、それなら〈黄昏の毛皮〉亭がお勧めだ。安いしメシは美味いし、景色もいい。夕食にはうちの魚使ってるしな」
そう言って店主が顎を突き出した方向に、二階建ての、塔のような白い建物が見えた。
「ありがとう……これ、買うよ」
もうすぐ、夕日が遺跡を染め上げるだろう。それをのんびりと眺めるには、〈黄昏の毛皮〉亭はおあつらえ向きとも思える。
お礼のつもりなのか、魚の干物をいくつか買ってポーチに入れると、吟遊詩人は教えられた宿に向かった。
少しずつ、陽が傾いていく。
与えられた二階の部屋で、吟遊詩人は荷物を置き、マントを畳み、ベッドに腰かけて一息ついた。部屋は質素だが、調度品の選び方や細かくそろえられた道具など、随所に心からくつろげるような配慮がなされている。
水差しから茶を注いで一口含むと、旅人は荷物から、手のひら大の古ぼけた金属の板を取り出した。ところどころひび割れたその板には、共通語とはまったく違うことばの連なりが刻まれている。
学者や魔術師には、その言語を知る者が多い。古代語、と呼ばれる、魔法文明時代に使われていたことばだ。
「約束の日……か」
つぶやき、彼は目で文字列を追った。
愛しき人へ――文章は、その一言から始まる。
吟遊詩人がその板を持っていた老探険家から聞いた話や、板に書かれていることを総合すると、板にまつわる物語はこうだった。
一〇〇〇年以上も昔の魔法文明時代、ある騎士と、幼いころから彼に付き従ってきた従者の女性がいた。女性は控えめながらも騎士に恋心を抱き、騎士もまた、それを快く思っていたらしい。
だが、騎士は国に忠誠を誓っている。時に命すら賭けなければならない騎士を、いつも従者は心配しながら、待ち続けていたのだという。騎士も、いつ死ぬともわからない身で愛を誓うわけにもいかず、従者に、あくまで主の態度で接していた。従者もそれを不満には思わず、ただそばにいるだけで幸せだったのだ。
しかし国が滅びるかどうかの瀬戸際、分の悪い最後の戦いに、その騎士も召集される。そこで、従者の女性が約束して欲しい、と語りかけたのが、吟遊詩人の手にする板に書かれた内容だ。
『他の何もいりません。ただ、約束してください。どうか、離れ離れになろうとも、預言の神殿にて再会できますよう。戦終わるとき、わたくしは何としてでも神殿に参ります。わたくしの命が果てたときは、その時はただ一度だけ、月が満ちた夜に神殿の祭壇でわたくしを夢見ていただきますよう。いつまでもお待ちいたします』
預言の神殿こそ、ホウゼンの遺跡の名だった。
各地の伝説のいくつかに、異界を夢に見ることができる神殿の話が出てくるものがある。その神殿こそが〈預言の神殿〉なのではないか――それが、吟遊詩人と、彼に板を託した者の共通の推理だった。
ふと窓の外を眺めると、まるで遺跡に照らされているかのように、空が黄金色に染まっている。この世の始まりにも終わりにも思える、黄昏の風景。
徐々にその周囲を紫色に染めつつある夜闇のなかに、円を描く、蒼の月が浮かんでいた。
もともと、小さな町である。夜も深くなると、街並みは静まり返り、自然の山々の一部と同化する。獣が寄り付かないようかがり火が焚かれ、交替での見回りは行われるものの、このような夜更けに出歩く住民は滅多にいない。
人目がないことを確認し、吟遊詩人は遺跡への階段を降りた。
見上げると、蒼い満月が静かに周囲を照らしている。もうひとつの月、緋の月は低い位置にあり、山並みに隠れていた。
闇の中でも淡い黄金色の光を放っている遺跡の中心、宮殿に囲まれるようにして、大きな神殿がそびえていた。壁はなく、円柱で支えられた天井にも、長方形の穴が開いている。
ただでさえ、美しい模様が彫り込まれ女神や竜の彫像が並ぶ芸術的な神殿だが、柱の間から内部に侵入した吟遊詩人は、目を見張る。
天井から侵入した光が鏡に反射し、それぞれ、色とりどりのガラスを通過して、ひとつの絵を床に描き出していた。大きな女神が両手を差し出し、その両手の上に、寝台にも見える祭壇が横たわる。
おそらく、蒼の月の満月の夜にだけ見ることができる芸術だろう。
滅多に目にできないものを見て少し得をした気分になりながら、吟遊詩人は祭壇に歩み寄り、槍と竪琴を立てかけると、祭壇の上に仰向けに転がる。
マントが下になるとはいえ、冷たく硬い寝台だ。
それなのに、後頭部を台の上に落ち着けた途端に抗いがたい睡魔に襲われ、吟遊詩人は意識が遠のくのを覚える。
抵抗することなく目を閉じると、彼は間もなく、異質な目覚めを経験する。
眠気がすっと引き、しかし、頭がすっきりとはしない。ふわふわと、どこかに浮いているような感覚の中で、彼はそっと身を起こす。
場所は、変わってはいないようだった。ただ、人の気配などなかったはずの周辺に、行き交う姿や、神像に何かを祈る姿が加わっている。賑やか、とまでは言えないが、まったく人の姿などなかったはずの場所とは、雰囲気が一変していた。
祭壇から上体を起こし、少し放心したように見回していた吟遊詩人の目の前に、一人の若い女が進み出た。緩やかに波打つ金髪の、色白な美女である。
彼女はためらいながら、視線を、吟遊詩人の胸の辺りに向けていた。それに気がついて、この異界への侵入者は、懐から、古代語が刻まれた板を取り出した。
「あ……そ、それは……」
「これは、あなたが書いたものだね?」
相手のうろたえた顔を見て、彼はそう確信した。立ち上がりながら問いかける。
女は板を渡されると、少し落ち着きを取り戻し、小さくうなずく。
「ええ……これは確かに、わたくしがアルシコロさまに送った物です。それ以来、わたくしは待ち続けています。あの方がいらっしゃるまで、待ち続けています」
女の目には、すでに答を知っている者の悲しみが輝いている。
すでに、人の寿命などはるかに超えただけの時が流れている。騎士アルシコロも、とうに命尽きているはずだ。
「……きっと、その騎士は戦で命を落とし、約束を果たしたくとも果たせなかったんだよ」
吟遊詩人には、それまで何かを求めたことも、わがままを言ったこともない女が、たった一度きりの約束で自らこの神殿に魂を縛り付けていることが、少し哀れに思えた。そろそろ答を見つけて、この長い呪縛を終わらせてもいいはず――そう思えた。
しかし、女は細い首が折れそうなほど激しく、頭を左右に振る。
「あの方が亡くなっているのなら、ここに来てくださるはずです! ここで約束をした者は、次の満月までに魂が肉体から放たれるとき、ここに来るはずなんです!」
その剣幕に少したじろいだあと、何かに気がついたように目を見開き、そして、吟遊詩人は悲しげに目を伏せた。
「おそらく、この神殿の仕掛けは蒼の月の力で動くものだね。でも、魔法文明が滅びた消魔大戦のとき、セルティスト界にはもうひとつの月が生まれたんだ」
空にさまようは、再生と守護の魔力を導く蒼の月に、破壊と革新を司る緋の月。現代のセルティスト〈フォース〉では誰もが知っている事実だが、それは、消魔大戦以前の世界しか知らない女にとって、聞いたことのない話だったに違いない。
かつて、月はひとつしかなかったのだ。その事実を知る者は、少ない。
「だからきっと……ここに作用している力も薄れたんだろう。それで……」
さらにことばを紡ごうとしたとき、違和感を感じて、彼は周囲を見回す。
景色が一変した。広がるのは、血生臭い戦場。
「え……?」
呆然と立ち尽くす女の姿は、変わらずそばにある。その女の手のひらの上で、板が淡く輝いていた。
その板が、この風景を見せているのか。
改めて、戦場を見渡す。吟遊詩人と女に目もくれず、武装した男たちが刃を打ち交わし、槍を突き出し、魔法の炎や氷の矢を飛び交わせる。
その中に、幅の広い剣を手にした鎧兜姿があった。頬当ての隙間から覗く精悍な横顔に、女が小さく声を上げる。彼が、女の主、アルシコロだろう。
各地を旅してきた吟遊詩人は、荒事に巻き込まれることも多かった。その彼の目にも、アルシコロの剣技は熟練のものと映る。
敵を切り捨て獅子奮迅の活躍を見せる騎士に、だが、やがて災いが降りかかる。
空が割れ、地鳴りが響き渡ったかと思うと、騎士は地面ごと大きく吹き飛ばされた。
ただ眺めているしかない二人の前で、めまぐるしく風景が変わる。遠い地の砂浜で目覚める青年。そして、両足を失ったことに対する驚きと絶望。それを、助けてくれた家族が支え、その家の若い娘に想われながら、ただ預言の神殿に向かう日を思い描き、一生を終えた騎士。
「あの人は、約束を守ろうとしてくださった……ここに来たかったのですね」
風景は、神殿に戻っていた。ただ、吟遊詩人のほかの姿は、静かに頬をぬらす女一人だ。
「今夜は来たさ。そこに」
女の手の中の板は、いっそう強く輝いているようだった。
それがさらにまばゆく輝いたかと想うと、女のかたわらに、武装した男の姿が現われる。
別れのときがきたことを、吟遊詩人も、女も、騎士も本能的に感じ取っていた。
「……ありがとう」
色々な思いを込めた一言が、男と女の声音を持って、光の中で重なった。
まるで、夢のようだった。
実際、夢だったのかもしれない――薄れつつある床の女神の姿を見ながら、吟遊詩人は身を起こし、槍と竪琴を手にする。
ふと、懐に手を入れてみると、金属板はなくなっていた。
神殿を出る彼が見上げると、流れ星がふたつ寄り添うように、蒼の月に向けて流れていく。
それから闇が薄れるまでの間、ホウゼンの眠りを邪魔するのを恐れるかのように、静かに鎮魂歌が流れていた。
〈了〉
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