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9章 キリスト教のどこが間違っているのか

〔これから紹介するシルバーバーチのキリスト教批判は、いささか酷なのではないかと思われる向きも少なくないことであろう。が、シルバーバーチをよく知る人ならば、シルバーバーチという霊が批判めいたことを口にする時は、よくよくの根拠がある時に限られることをご存じであろう。常に「理性」に訴え、理性が納得しないものに対しては、いかに権威のあるものでも頭を垂れない〕

宗教的信条ないしは教条は、地上界のいわゆる夾雑物の一つです。これは見方によっては疫病や伝染病よりも性質が悪く、身体的な病よりも危険です。なぜなら、それが「魂の病」を生み出しかねないからです。霊性が目隠しをされてしまうのです。

なのに地上人類は、大霊の無限の叡智が存在するにもかかわらず、教条にしがみつきます。もっとも、中には教条に縛られている方が気楽だと考える人もいます。しょせん「自由な人」とは、自由であることの本当の有り難さを知った人のことです。ここにおいでの皆さんは教条の奴隷の状態から脱したことを喜ぶべきです。喜ぶと同時に、今なお奴隷状態にある人を一人でも解放してあげるべく努力してください。

私たち霊団の者は皆さんにいかなる教義も儀式も作法も要求しません。ただひたすら大霊の愛の実在を説くだけです。それが、大霊の子等を通して発現すべく、その機会を求めているからです。そのためには、いかなる書物にもいかなるドグマにも縛られてはいけません。いかなるリーダーにもいかなる権威にも、またいかなる巻物にもいかなる教義にも縛られてはなりません。

いかなる聖遺物を崇めてもいけません。ただひたすら大霊の摂理に従うように心がけるベきです。摂理こそが宇宙で最も大切なものだからです。宇宙の最高の権威は大霊の摂理です。

教会と呼ばれているものの中には中世の暗黒時代の遺物が少なくありません。そもそも大霊はいかなる建築物であってもその中に閉じこめられる性質のものではありません。あらゆる所に存在しています。石を積み重ね、その上に尖塔をそびえ立たせ、窓をステンドグラスで飾ったからといって、大霊が喜ばれるわけではありません。

それよりも、大霊が用意してくださった太陽の光が子等の心を明るく照らし、大霊が注いでくださる雨が作物を実らせることの方が、よほど喜ばれます。ところが、残念なことにその大霊の恩寵と子等との間に、とかく教会が、政治家が、そして金融業者が介入します。こうしたものを何としても取り除かねばなりませんし、現に今まさに取り除かれつつあります。

霊力を過去のものとして考えるのは止めにしないといけません。ナザレのイエスを通して働いた霊力は今なお働いているのです。あの時代のユダヤの聖職者たちは、イエスを通して働いている霊力は悪魔の力であるとして取り合いませんでしたが、今日の聖職者たちもスピリチュアリズムでいう霊力を同じ理由で拒絶します。しかし、地上界も進歩したようです。その霊力を駆使する者を十字架にかけることはしなくなりました。

イエスが放った光輝は、あの時代だけで消えたのではありません。今なお輝き続けております。そのイエスは今どこにいると思われますか。イエスの物語はエルサレムで終わったとでも思っておられるのでしょうか。今なお苦悩と混乱と悲劇の絶えない地上界を後にして天上界で賛美歌三昧に耽っているとでもお思いですか。

私たち霊界の者からの働きかけを信じず悪魔のささやきかけであると決めつけているキリスト教の聖職者たちは、その昔ナザレのイエスに同じ非難のつぶてを浴びせたユダヤ教の聖職者たちと同列です。イエスは私たちと同じ大霊の霊力を携えて地上界へ降誕し、同じ奇跡的現象を起こして見せ、同じようなメッセージを届けました。即ち、喪の悲しみに暮れる人々を慰め、病める人々を癒し、暗闇に閉ざされた人々に光をもたらし、人生に疲れた人々には生きる勇気を与え、何も知らずにいる人々には霊的知識を授けてあげなさい、と。

私たちもあなた方も皆、大霊への奉仕者です。その点は同じです。ただ私たちは進化の道程においてあなた方よりも少しばかり先を歩んでおります。そこでその旅先で学んだ知識と叡智を教えてあげるべく舞い戻ってきたのです。奉仕、即ちお互いがお互いのために自分を役立てるというのが、生命原理の鉄則だからです。奉仕精神のないところには荒廃あるのみです。奉仕精神のあるところには平和と幸せが生まれます。地上界は、互いに奉仕し合うことによって成り立つような生活形態を目指さないといけません。それは本当はいたって簡単なことなのですが、なぜかそれが難しい形態となっております。その元凶が実は組織宗教なのです。

誠に残念なことですが、「神の使徒」をもって任ずるキリスト教の聖職者たちには一から学び直してもらわねばならないことが沢山あります。彼らは何の根拠もない基盤の上に神学体系を築き上げました。まさに「砂上の楼閣」です。それがスピリチュアリズムの真理の攻撃にあって危うく崩れそうになるのを必死に支えようとしているのです。

そもそも土台が間違っているのです。イエスなる人物を作り話で取り囲んでいるに過ぎません。そうすることでイエスをゴッドと同じ位の座に祭り上げたのですが、その根拠に何の正当性もありませんから、その非を指摘されると、理論的にはそれを撤回せざるを得ません。しかし、いよいよ撤回するとなると、内心、大きな恐怖心に襲われるのです。

「それを失ったら、あとに何も残らない……」彼らはそういう危惧を抱くのです。が、それは大きな勘違いです。もしも事実という基盤、即ち大自然の摂理の上に成り立っていれば、撤回しなければならないものは何一つないはずです。

ここにこそ私たちが地上界へ舞い戻ってきた理由があるのです。いかなる人物であろうと一個の人間に忠誠を捧げてはいけない。いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、それのみにこだわってはいけない。いかなるリーダーであろうと、たとえ霊界の存在であっても、絶対的に服従してはいけない。絶対的忠誠を捧げるべきは宇宙の摂理である。なぜなら、これだけは謬(あやま)ることもなければ裏切ることもないから、ということを教える必要があるからです。

だからこそ私たちは大自然の絶対的摂理・法則の存在、それのみを説くのです。それを「スピリチュアリズム」と呼ぼうと何と呼ぼうと構いません。大霊が定めた、宇宙間のありとあらゆる次元、目に見える世界であろうと霊界と呼ばれている界層であろうと、果てしない宇宙のすみずみまでも張り巡らされている摂理・法則であることを理解していただけば、それでよろしい。

地上界ではリーダーが重んじられてきました。それは決して悪いことではないのですが、問題はその偉大さが過大評価されて、そのリーダーが全能視されるようになってから面倒が生じはじめました。そのリーダーの教説が絶対視されるようになり、それが科学者を、思想家を、そして精神だけは自由でありたい、理性が反発するものは受け入れたくないと思っている真っ正直な人々に窮屈な思いをさせることになりました。

そこで私たちは大霊の摂理の存在を強調するのです。その摂理の正しい理解こそが全知識を調和させるからです。科学者や哲学者、自由思想家、その他いかなる分野の人でも反発を覚えさせることはありません。永遠に不変で謬ることのない、大霊の働きを土台としているからです。

こうした、一見何でもなさそうな私たちの働きかけ、即ち宇宙の絶対的摂理を説くということの背後に、地球浄化に携わる高級霊団の叡智を読み取ってください。地上人類は叡智と理解力が向上するにつれて、大霊の摂理に従って生活を規制していくようになります。摂理に忠実に従うことの大切さを悟るようになります。言い換えれば、地上界で生み出される悲劇や飢え、苦難や悲嘆の原因は、大霊の摂理が素直に守られていないという、ただそのことに尽きることを悟るようになるでしょう。

そうした不幸は大霊の庭にはびこる雑草のようなものでして、せっかくの美しさを台無しにしてしまいます。それを取り除くには理解力の進歩が先決です。そこで私たちがこうして大霊の摂理の存在を説くのです。人類の魂を解き放し、精神的に自由にしてあげるためだけではありません。身体的にも大霊の法則と調和して生きていけるようにしてあげたいのです。

キリスト教に私が我慢ならないのは、説くチャンスはいくらでもありながら、本当の事実を信者に明かそうとしないからです。

また私が我慢ならないのは、本来はその代弁者たらんとしているはずのナザレのイエスを裏切るようなことばかりしていることです。

さらに許せないのは、そのイエスを神の座に祭り上げて、物質界の子等の手の届かない存在としてしまっていることです。これではイエスが意図した人間としての生き方の模範ではなくなってしまうからです。

本当なら教会の入り口には「我等が忠誠を捧げるのは真理、ただ真理のみ」とあるべきところを、実際には「我等は信条を説き、教義を旨とし、儀式を重んじ、祭礼を絶対視する」と書かれております。教会はまるで真理に敵対するための手段となっております。

決して私は、聖職者になって神に仕えたいと真摯に望んでいる人を非難しているのではありません。そういう人が少なからずいることは私もよく知っております。私が非難しているのは「組織」です。真理への道を閉ざし、古い慣習を温存し、霊力という活力溢れるエネルギーの入る余地をなくしている、硬直した教会の体質です。

そんな教会にどうして霊力が受け入れられましょう? そこには「立入禁止区域」というものが設定されているのです。

私たちは宇宙の大霊と自然法則の存在を説きます。その法則の働きの証をお見せする道具のようなものです。そしてナザレのイエスの本来の人となりをお教えして、イエスもやはり大霊の道具であり、地上の人間も大霊から授かった霊力を発揮しさえすればイエスと同じ生き方が可能ですと申し上げているのです。

信条・ドグマ・教義・儀式・祭礼・ステンドグラス・祭壇・法冠・外衣――こうしたものが一体宗教と何の関係があるというのでしょう? 宗教とは霊性に関わるものです。全ての創造物に宿り、生命のあらゆるリズムと現象となって顕現している霊性、大自然のあらゆる側面に顕現し、人類の進歩のために寄与している理想主義者や改革者を鼓舞している霊性、それが一個の教義と何の関わりがあるのでしょうか。

自由であるということがどういうことであるかを悟らねばなりません。魂を牢に閉じこめてはいけません。周囲を垣根で取り囲み、新しいインスピレーションを拒絶するようなことをしてはいけません。真理の道は永遠に尽きることのない探求です。その境界線は無限に広がり続けます。魂が進化するほどに精神もそれに反応していくものです。

知識にも真理にも、叡智にも成長にも、これでおしまいという極限がないことを悟った時、その時こそ本当の意味で「自由」となるのです。内心では間違っていると感じていること、理性が得心しないことを潔く捨て去った時、その時こそあなたは「自由」となるのです。知性が反乱の雄叫(おたけ)びを上げたのです。新しい真理の光で自分の間違いに気づき、怖じけることなくそれを捨て去った時、あなたは本当の意味で「自由」となるのです。

知識は、それを求める用意の整った魂には自由に分け与えられるものです。が、そのためには大いなる冒険の旅に出る覚悟が要求されます。当てもない求道の旅です。冒険と危険への覚悟も必要です。人跡未踏の地を歩まねばならないかも知れません。しかし、真理の指し示す所へは臆することなく突き進み、間違いと分かったものは、たとえ何千年ものあいだ金科玉条として大切にされてきているものでも、潔く捨て去る勇気がなくてはなりません。

地上人類は古い神話や伝説を、ただ古くからあるものというだけの理由で大切にしすぎております。真理と年代とは必ずしも手を携えて進むものではありません。幼少時代に教え込まれ大切にしてきた信仰を捨て去ることが容易でないことは私もよく承知しております。しかし、魂が真に自由になるには、理性が納得しないものは潔く捨て去ることが出来るようでなくてはなりません。

(教義や儀式などの形骸にとらわれて)霊界からの生きたエネルギーに直に接することを知らないが故に、地上界はどれほど霊性を失ったことでしょう。迷信や無知の壁を切り崩さんとする私たちの努力は、これから先、一体どこまで続けなければならないのでしょう?

もっとも、あなた方が想像するほど長くは掛からないでしょう。周りを見回してご覧なさい。崩壊の兆しが至る所に見られます。堅牢を誇った見栄の象徴の砦が、今まさに崩れ落ちつつあります。そのうち皆さんの真理の雄叫びが、それを完全に突き崩してしまうことでしょう。

質疑応答

――キリスト教でもそうですが、古い時代の偉大な宗教家の最期はとかく自然現象が伴い、神話や伝説に登場する神々の名前と結びつけられているのですが、なぜでしょうか。

それは、地上の人間が自分たちのリーダーには超自然的な能力があったと信じたくて、太古の神話や伝説を借用したからです。大自然の現象にも法則があるということを知らなかったのです。この人こそ我等が救世主、と信じた人物を凡人の手の届かない位置に祭り上げたかったのです。それで互いに神話・伝説を借用しあったのです。しかし、どう飾ったところで大霊の使者が届けた教えに何の影響も及ぼしておりません。その時代その時代にふさわしい真理と叡智と愛を反映していたからです。

――そうした人物の生死が、冬のあとに春が訪れるように、自然界の営みに従って繰り返されているように思えるのは、ただの偶然でしょうか。

頭に浮かべておられるのが、例えばナザレのイエスが処刑された時に大嵐になって稲妻が走ったという話でしたら、それは作り話です。ですが、死んでいった人物の霊が戻ってくるというのであれば、それは事実です。大霊の使者が何度も舞い戻ってくるというのは、よくあることです。

――聖霊に対する罪というのは何でしょうか。

聖霊の存在を否定することです。

――聖霊とはそもそも何なのでしょうか。

物質界へ注がれる霊力のことです。キリスト教では抽象的な意味でその存在を認めていながら、それが人類の誰にでも注がれるものであることは否定します。こうして皆さんと語り合うことを可能にしているのが霊力なのです。ほんの一時的ではあっても霊界と地上界とが一つの目的のために一体となることを可能にしてくれるのです。

――聞くところによりますと、洗礼を受けることによって死後その宗派の霊の一団が迎えてくれて、新しい環境を整えてくれることになるそうですが、もしそうだとすると、洗礼を受けていない者はどうなるのでしょうか。

この大宇宙を動かし、物的身体に生命の息吹を吹き込んだ大霊、宇宙の全天体とその動きの法則を司る大霊、ありとあらゆる次元の生命として顕現している大霊、太古から預言者や霊覚者を通して顕現している大霊、全存在の内部と背後に存在する大霊、その大霊が、一個の人間に水滴が垂らされているか否かでお困りになることはありません。

大切なのは地上生活を最高の摂理に忠実に生きたか否かです。赤子に二、三滴の水を垂らしたからといって、それで摂理が変えられるわけではありません。摂理は絶対に変えられません。原因にはそれ相当の結果が生ずるというのが大原則です。

――キリスト教は多くの奇特な人物を生み出していませんか。

そういう人物はクリスチャンになろうとなるまいと立派だったはずです。

――でも、イエスの教えに従おうと心掛けることで立派になった人物もいるのではないでしょうか。

ナザレのイエスを本当に見習うようになった時、その時から人類の歴史はまったく新しい時代を画することになるでしょう。今までの所まだそこまでは至っておりません。少なくとも私にはその兆しが見えないのです。帰依すると公言しているイエスその人を裏切るような生活を送っている人たちのことを、この私の前で「クリスチャン」と呼ぶのは止めてください。イエス自身こう述べているではありませんか――「私に向かって主よ、主よ、と呼びかける者の全てが天国に召されるわけではない。天にまします父の意志を実践する者が召されるのである」と。

――教義というものにあまりこだわらず、無欲で立派な人生を送っているクリスチャンも無数にいると思うのですが……

そういう人はクリスチャンとしては立派とは言えないでしょう。いわばダメなクリスチャンですが、人間としては立派です。教義は必ず足枷になるということを忘れないでください。教義を重んじることで立派になるのではありません。教義を無視しても立派になれるのです。キリスト教国では教義の名のもとに殺し合いと火刑が行われてきました。魂を縛るもの、魂を閉じこめるもの、魂の自由な顕現を妨げるものは、すべからく排除しなくてはいけません。

――ハンセン病患者の居留地へすすんで赴く牧師はどう理解したらよいのでしょうか。

そういう牧師は教義に動かされて赴くのではありません。魂の奥にやむにやまれぬものを感じるからです。宗教は教義ではありません。教義が宗教ではありません。

――イエス・キリストは教会が言っている通り「神の唯一の御子」なのでしょうか、それとも我々と同じ人間であって、ただ並外れた霊的能力を持っていたということなのでしょうか。

ナザレのイエスは大霊の使命を帯びて物質界へ降誕した多くの大霊の使者の一人でした。そして地上で為すべき仕事は果たしましたが、それで使命の全てが終わったわけではなく、今なお霊の世界から働きかけております。

そのイエスを祈願の対象とするのは間違いです。祈願は大霊に捧げるべきであって、大霊の使者に捧げるべきではありません。

またイエスも大霊が定めた自然法則、全ての人間がこの地上界へ誕生するに際してお世話になる法則の働きで誕生しております。この地上界へ生まれ、生き、そして霊界へと旅立って行くに際しては、いかなる人間も大霊の自然法則の働きに与(あずか)るのです。(イエスだけが例外というわけではないということ)

――そのことを立証する言葉が聖書の中にあるのでしょうか。

私が忠誠を捧げるのは大霊の摂理のみです。今もって聖書の片言隻語(へんげんせきご)にこだわる御仁は、大霊というものが今なお活動し、鼓舞し、顕現しつつあるという事実に理解が行くまで放って置くしかありません。

大霊の摂理は今も働いており、ふさわしい道具さえあれば、かつてと同じように大霊の霊力がいつでも流入するのです。あなた方の聖書も立派な書物かも知れませんが、もっともっと素晴らしい書物があるのです。森羅万象がそれです。大霊の法則によってその千変万化の壮大な営みが維持されています。いかに立派な書物も、いかに大切にされている書物も、いくら権威あるものとされている書物も、比ベものになりません。

――イエスは今どこにいるのでしょうか。また何をしているのでしょうか。

「ナザレのイエス」と呼ばれた人物を通して顕現した霊は、二千年前に開始した使命を成就すべく今なお地上界へ働きかけております。その間、数え切れないほど十字架にかけられており、今なお毎日のように十字架にかけられております(その本当の教えが踏みにじられているということ)。しかし、その霊も大霊の一部ですから、地上界へ平和と幸せをもたらすべく、地上の道具を通して今後ともその影響力を行使し続けます。

――あなたが「ナザレのイエス」とおっしゃる時、それはあのイエスと呼ばれた人物その人のことですか、それとも彼を通して働いている霊力のことですか。

イエスと呼ばれた人物のことです。ただし、その後その霊格は飛躍的に進化を遂げ、地上時代とは比較にならないほど意識の次元が高くなっております。地上時代に顕現した意識は必然的にその時代のレベルに同調させられました。とは言え、人類史上でイエスほど霊性が多く発現した人物はいませんし、その発現の次元がイエスほど高度だった人物もいません。

――この二千年の間でですか。

後にも先にもいません。大霊の顕現としては地上界が賜った最大級のものです。といって私たちはそのナザレのイエスその人を崇拝することは致しません。そのイエスを通して顕現した霊力に敬意を表するのです。イエスの存在価値は、その人物を通して顕現した霊力が空前絶後のものだったことにある、というのが私たちの認識です。

――霊界では、さらなる啓示のためにイエスのような指導者を地上へ派遣する計画があるのでしょうか。

時代が異なれば、それに対応して別の手段を講じることになります。忘れてならないのは、現代の地上界は(イエスの時代に比べて)遙かに複雑化しており、国家間の相互依存の傾向が大きくなっておりますから、それなりの対応が必要だということです。民族性の違い、人生思想や生き方の違い等を考慮しなくてはなりません。

一口に霊界からのメッセージといっても、それぞれの国を取り巻く環境・特徴・民族的慣習に対応したものでなくてはなりません。それに、言語その他の制約も受けます。しかし、そうしたものの背後を取り仕切っているのは、イエスの時代と同じ霊力です。

キリスト教ではイエスが「死者」から蘇り、「死後」に姿を見せ、「死」の彼方にも生命があることを証明して見せたことで、そのイエスを崇拝の対象としているわけです。十字架にかけられた時の傷跡まで見せております。その後も弟子たちに姿を見せております。

そうしたことはキリスト教会でも、たとえ証明できなくても信じています。(イエスが神の御子だったからこそ生じた)奇跡だったと信じているわけです。しかし、実はこうして私たちが地上界へ戻ってきて死後の存続を証明し、大霊は無限・絶対の存在であり、その摂理は永遠に不変であること、イエスが蘇ったごとくに全ての人間が蘇るものであることを立証しているのも、同じ法則の働きによることを知ってください。

〔国教会のカンタベリ大主教がラジオ放送で「組織宗教へ帰れ」と訴えたことについて、シルバーバーチが次のようなコメントをした〕

地上界では「宗教に帰れ」という呼びかけがあるそうですが、真の宗教とは同胞に奉仕することによって大霊に奉仕することです。そのためには殿堂も牧師も僧侶も聖典もいりません。そうしたものは奉仕の精神を植え付け同胞への愛の心を強めることにならない限り、何の意味もありません。いつどこにいても人のために役立つことをすることです。同胞の重荷を軽くしてあげることです。それが宗教です。

私は、すでに地球人の多くが直感的にあるいは理性と論理的思考によって悟っている、単純明快な真理を繰り返し説くだけです。私は三千年もの長きにわたって、地上界より遙かに高遠の世界で生活してきました。そこでは常に実在に直面させられ、因果律が即座に作動し、人のために役立つことを心掛ける者が必ず報われます。そういう世界で学んだ真理をお届けしているのです。そこでは地上時代の地位や肩書きといった飾りものが全て剥ぎ取られ、魂はその有りのままの姿を衆目にさらされ、長所と短所が一目瞭然となります。

私はそういう生活の場――本当の価値が認められ、ごまかしが通じず、不公平の存在しない世界からやってまいりました。金持ちも貧乏人もいません。いるとすれば霊性の豊かな人と貧弱な人だけです。強者も弱者もいません。いるとすれば霊的に強い人と弱い人だけです。地上界で大切にしていたものが遠い過去のチリとなって忘れ去られ、永遠の霊的実在のみが存在している世界です。

振り返ってあなた方の世界を見回してご覧なさい。悲惨と絶望の窮状、悲しみと苦悩に満ち溢れております。ということは、手を差し伸べるべき奉仕の場がいくらでもあるということです。無知がはびこり、権力の乱用が大手を振ってまかり通り、偏見がのさばっております。一方に飢餓に苦しむ者がおり、他方には持ちすぎているが故の苦に喘いでいる者がいます。病苦にさいなまれている者、内部に宿る霊を発現する術を知らずに不幸をかこっている者がいます。貧困と苦痛に打ちひしがれ、「クリスチャン」と自負する人々にとって恥さらしとも言うべき、あばら屋で暮らしている人々をご覧なさい。

忘れないでいただきたいのは、そうした地上界も「神の王国」の一つになり得るということです。平穏と豊かさに満ちた「神の国」に変えるための潜在力が秘められているのです。ただ現状は、利己主義という名の雑草が生い茂り、その潜在力が発現を妨げられています。

そこで私たちは皆さん方に奉仕というものを要求するのです。自分を捨て、我欲を捨て、地上的なものよりも天上的なものを優先させ、お一人お一人が大霊のメッセンジャーとなっていただきたいのです。お一人お一人が改革の責務を担い、生活に明るさと生きる喜びと笑い声に溢れさせ、無知と迷信を駆逐して代わって霊的知識を普及させ、暗闇の中で生きている人々に霊的真理の光明をもたらし、恐怖心も喪の悲しみも病気も知らない、愛に包まれた生活の場としていただきたいのです。