<1964年(昭和39年)翔け抜けました>
東京都台東区浅草千束
プラスチックモデルというまったく未知の世界の扉をこじ開けたのがマルサン商店なら、それを大きく
押し開いたのは三共模型製作所と三和模型であった。
マルサンはブルドッグトイなどのブリキ製品や数多くの玩具を世に送り出していたし、三和もソリッド
モデルの時代からこの業界に参入していた。
そんな模型業界に突如彗星のごとく出現し、たちまち子供の心を虜にしたメーカーがあった。
三共模型製作所である。
その先鋒を務めたのが 1/150の統一スケールでまとめ上げられた飛行機模型のピーナツシリー
ズであった。
このころ海外ではFROGをはじめ、1/72というのがすでにグローバルスタンダード化しており、今
日のような情報化社会であれば三共のピーナツシリーズは1/144となっていたのかもしれない。
まだまだ海外からの情報はとぼしく、また尺貫法からメートル法への移行もその大きな一因になって
いたのであろう。
シリーズ統一スケールという概念で製作されたプラスチックモデルは、このピーナツシリーズが最初で
あると思われる。当時は箱スケール つまり最初に箱の大きさがあって、それにうまく入る大きさで金
型を製作し、後からスケールを算出する。そんなやり方が多く、無論単品物であればそれで十分であ
ったし、初期の物にはそのスケールさえ明示されていないモデルも多数あった。
マルサンマッチ箱シリーズなどもこの手法で製作されていたし、1/429などと中途半端なスケール
の物すらあった。
ただその時代、個人が何十ものモデルを一堂にに並べ悦にいるようなことは一部の人間を除いては
余りなかったろうし実機の大きさになるとまったく知るよしもなく、メーカーが1/50というなら五十分
の一、1/150なら百五十分の一 かあ〜、と思っていた。
そういう意味では三共がピーナツシリーズで1/150 統一スケールという展開を押し進めたのは本
当に凄いことであった。
もちろん誰でも零戦よりBー25の方が大きいであろう事は想像できたが、Me-109と零戦・ホーカー
ハリケーンとPー51の大きさの比較など考えすらしなかった。
現在そのスケールがはたして本当に正確なものかどうかという問題はあるが、みんな同じような大き
さだろうと何となく思っていた子供達にとって 「へ〜、こっちの方が大きいんだ」
そんなスケールという概念を漠然とではあるが認識させたのは、この 1/150 統一スケール
三共 ピーナツシリーズであった。
三共模型がピーナツシリーズの第一作に選んだのは、やはりというべきかゼロ戦であった。
三共が当初このシリーズが50機種を越え、同社というより初期プラスチックモデルの代名詞になるような
輝かしいシリーズになろうとは、想像だにしてはいなかったことであろう。
この時マルサンのマッチ箱シリーズやYMCのベビープラスチックシリーズなど、ピーナツシリーズと同コン
セプトのミニモデルとも呼ぶべき飛行機モデルは既に発売されていたが、これらのシリーズが子供たち
の心を虜にすることはなかった。
何故か? それは子供たちの手の中で大きくもなく、かといって決して小さくもない1/150。 ¥30という
許容範囲。 そして圧倒的な開発力と発売の堅持・・・・・・そんなところだろうか。
予想以上の販売量に対応してか、発売翌年にはパッケージ
の変更をしている。
最新モデルというか最終モデルのパッケージ
NO.2 零式観測機はゼロ戦と同時発売で、上が初版の
パッケージであるがピーナツシリーズの表示がない。
右の箱は箱絵自体は同一のものだが、ピーナツシリーズ
NO.2の印字が追加されている。 ¥35の表示。
右上は最終版で接着剤はピーナツボンド、初版にはアンプル
タイプの接着剤が付属していた。
これらシリーズの箱の裏は組立て図になっているが、初期の
ものが組み図だけだったのに対し、後のモデルはより詳しい
記述が追加されている。
ピーナツシリーズには英語バージョンもあったようだ。
上のj箱がそうであるが、輸出されていたのかは不明
である。 左はボックスサイド。