1951年に台東区で日本模型航空工業として設立され、1959年2月に日本最初のオリジナル
プラスチックモデルともいうべき、自動浮沈装置を装備した ”伊号潜水艦” を世に送り出し
メガヒットを記録した。 現在も存続し続ける老舗メーカー。
ニチモのロゴは変化がなかったとか、あまり変わっていないとか
いわれていますが、結構変化しています。
日本模型 最初のプラスチックモデル
伊号潜水艦のみに使用された日模
のロゴマーク。
日模のロゴは60年代前半を見ても
かなりの種類があったようだ。
基本的にはお馴染みのペナントマーク
であるが、少しずつ違っているのがおわ
かりりいただけるだろう。
1/750 大 和
1/750 武 蔵
1/70 零 戦
1/80 セイバー
1/60 ベル47J
1/120 プラペット
隼 ・ 鐘 軌
1/70 飛 燕
1/75 マスタング
1/72 雷 電
自動操縦装置付パトロールカー カラーモデル 1/22 <小松崎 茂版>
完成模型は赤色灯・サイレンなどが消し飛び、単なるTOYOTA CARに
成り下がってしまっている。
今だに金属パーツが多用され、全47部品のうち接続金具等除いてもバンパー
など10点以上が使用されている。
1/22 TOYOTA PATROL CAR
1/2000
1964年は日本国民にとって忘れえぬ年となった。 第十八回 東京オリンピックが開催されたのである。
これは敗戦国であった日本が晴れて国際的に認知されたことを意味し、全日本国民の悲願でもあったのだ。 このオリンピックをもって
真に戦後は終了したのかもしれない。 新幹線が開通し高速道路が全国へとひろガっていったのもこの頃からである。
そして、この東京オリンピックの象徴ともいうべきものがメインスタジアム国立競技場であった。
国立競技場のプラスチックモデルは、いくつかの
メーカーから発売されていました。
クラウンからは 1/1200 という大きなものが
でていました。 日本模型の 1/2000 より
一回り大きなものでしたが、ベースとなる台座は
厚紙で出来栄えは日本模型の方が良い印象です。
なお、日本模型の 国立競技場は組立モデルと
完成済みモデルとがありました。
定価は¥250と¥500。
これはブームの去らないうちに、より広い年齢層
の人たちに買ってもらいたいという、時期もの
建築モデルに対応したものでしょう。
1960年5月に田宮模型から同社最初のプラスチックモデル 大和 が発売された。
1950年代後半から多くの木製艦船模型を発売していた田宮模型は、60年に入って先行メーカーに遅れることなくプラスチックモデルを
開発発売に至った。 最初のモデルが 大和 であったことはソリッドモデル時代の製品構成をみればいたって自然である。
発売価格は当初¥500を予定していたようだが、すでに発売されていた ”日本模型 大和” が¥350で売られていたため、¥350
という赤字覚悟の発売だったといわれています。
ただ、一部田宮模型の広告などには¥300程度とうたわれ、日本模型の箱にも 300 との書き込みされているところからも、実際は
¥300前後(程度)で小売されていたようです。
そして、この 日本模型vs田宮模型 大和決戦の勝敗結果ははっきりとでました。
日本模型 1/750 大和 の圧勝でした。
日本模型 大和
田宮模型 大和
日本模型・田宮模型 両大和の重要パーツ
船体の成型状態。
日本模型製は吃水線からカットされており下部
は赤色成型であるが、田宮模型の方はソリッド
モデルのようなくりぬき船体ともいうべき手法。
成型状態は日本模型に一日の長があるようだ。
日本模型 大和にはすでに同社の特長となる
艦舷の手すりが一体モールドされている。
< カットライン・成型色の違いがよくわかる。 田宮 大和 は甲板がプレート状
のため、変形反りが出ている >
< 両大和ともバッテリーは単3電池×2本
日本模型のものはボックス形式となっている >
< 駆動方式は 田宮模型がモーターに直結させた一軸形式。 日本模型は
2軸ギヤ-シャフトを使用した二軸形式 >
総合的に見て 日本模型 大和が
1960年 大和決戦 を制したのは当然の
成り行きだったと思われる。
その後、田宮模型は一時的に窮地に陥るが
ベビー・レーサーなど他社の不要になった
金型を引き取り再利用したりした。
そして、あの「パンサー戦車」へと進んでいく
のである。
1960年製 オーロラ社 大和 ディスプレーモデル
同じ年にアメリカで製作された 日本戦艦 YAMATO
発想の違いが面白い。