クリスチャンのための同性愛についての資料と牧会的指針

-このホームページ作成のきっかけと道のり-

ここ数年にわたり、小さないのちを守る会・名古屋支部を通じて性と命についての講
演や著作などの御奉仕をさせていただきました。性について学びを深める中、当然の結
果と思われますが、同性愛の問題にぶつかりました。私はこの奉仕を始める以前にも二
名の同性愛者のクリスチャンと出会っていました。当時の私はそれらの方を「極めて例
外的な牧会上の事例」として理解していました。しかし、同性愛について学び続ける中、
それが全くの事実誤認であることに気がつきました。
 日本にもクリスチャンであり同時に同性愛的傾向を有する人々は多くおられるという
事実を知ったのです。ただ、同性愛者への差別と偏見が根強い日本社会では、カミング
アウトが困難で、その結果、教職者や一般信徒が認識していないだけだということが分
かったのです。そして、さらに多くの資料にあたる中で、その方々の持つ大きな痛みや
深い葛藤を知り、この小冊子の基となる文書を作成しました。
そして、私は祈りました。「日本におられる同性愛者クリスチャンの方々のために私
を用いてください。」神様は鮮やかにその祈りに答えてくださいました。二人の同性愛
者クリスチャンと立て続けに出会ったのです。その約1ヵ月後に、私は一人のクリス
チャンを通じて、その方の友人(クリスチャン)が同性愛的傾向に苦しんでいるので相
談に乗って欲しいという依頼を頂きました。さらに、その2ヵ月後、私は別のクリスチ
ャンの方から、直接、面と向ってカミングアウトを受けました。その方の苦悩と葛藤の
姿を私は生涯忘れないでしょう。

このことを機に神様の導きと信じて、小さないのちを守る会・名古屋支部のホームペ
ージに「クリスチャンのための同性愛についての資料と牧会的指針」と名づけたコーナ
ーを設けさせていただきました。2001年11月現在で、ホームページはスタートし
て約1.5年となります。「同性愛」を前面に出したサイトでないにもかかわらず、1
年を過ぎた時点から予想外に多くの応答がありました。
現在までに6名の同性愛傾向を持つクリスチャンから電子メールでお便りを頂いてい
ます。その内の4名は、ご自分からすすんで本名と所属教会を明かして下さっています。
大きな信頼を頂いていることに驚きを覚えています。

実はその内の一名は、お便りをいただいた時点では教会に集っておられない未信者で
した。しかし、明らかに真実な求道心の持ち主でした。教会に集うことを願いながら、
ご自分のセクシャリティーがネックとなっていました。そこで、私に連絡を下さったの
です。
私はすぐに適当と思われる近隣の教会に連絡をしました。その教会の牧師はその方の
セクシャリティーを承知の上でお受け入れ下さいました。この牧師は同性愛を罪と判断
しながらも偏見も差別もなく、それどころか豊かな愛を持って、その方に接して下さっ
たようです。主の御名を崇めます!その方は、しばらくして受洗準備に入られ、バプテ
スマを受けられました。私はホームページを始めて本当によかったと思いました。

 私はこれらの5名の方々との交わりや生の声を通じて、決して(同性愛に関する)書
物では得られない大きな恵みをいただきました。それらは、このページでも活かされて
いると思います。
 前置きが長くなりましたが、このページが単なる神学的な関心から生じたものではな
く、極めて現実的な必要から始められたものであること、また、同性愛に関する啓蒙だ
けでなく、同性愛をめぐる現実の問題解決に少しでも貢献することを目的としているこ
とをご理解いただきたく願います。

活けるキリスト一麦教会 副牧師 水谷 潔


〜はじめに〜
(1)大前提として
本文書は同性愛についての基本的知識や資料、および聖書を基準とした倫理的判断材
料を提供し、同性愛者に対しての牧会的な指針を示すことを目的としています。この問
題については教会、およびクリスチャン個人の間に幾つかの大きな誤解があります。そ
の内で最も本質的な誤解は、教会内(特に新生したクリスチャン)には、同性愛者はい
ないという内容のものです。これは、明らかな誤解であって人間の性的指向や性行動に
対する理解不足に由来するものです。
 あるアメリカ人宣教師は、日本で「先生の牧する教会では同性愛の問題はありません
か」と尋ねると、必ず「そのような問題はありません」という答が返ってくるのに驚い
ています。「存在しない」のでなく「認識されていない」だけだという現実をこの宣教
師はご存知なのです。

同性愛の原因には諸説がありますが、どのような原因によるものであれ、「クリスチ
ャンであれば、その者は同性愛者ではありえない」という公式はおよそ成り立ちません。
もし、同性愛の原因が先天的なものであるならクリスチャンであるなしに関係なく、同
様の確率で同性愛的な指向を持つ人間がこの世に生を受けるはずです。
また、その原因が後天的なものであるとしても同様でしょう。特定の家庭環境や幼少
期の性体験を通過するなら、その者はクリスチャンであっても同性愛的傾向を有するよ
うになると考えられます。そのように(同性と異性のどちらを性愛の対象とするかとい
う)人間の性的指向は本人の意志に関係なく形成されるものです。したがって、明確に
新生を体験したクリスチャンであり、同時に同性を性愛の対象とすることは当然起こり
得るのです。


(2)ここでの「同性愛者」の定義
私がここで「同性愛者」という言葉を用いるとき、それは次のような二つの意味を持
っています。第一に同性愛的傾向を強く自覚的に有している人、言い換えるなら性的指
向において同性に強く傾く人のことです。ですから、同性愛行為をしている者とは限り
ません。多くのクリスチャンの同性愛者は同性に対する情欲を自覚していますが、同性
を対象とした性行為には及びません。むしろ、そのような誘惑や情欲と戦いつつ歩んで
おられる人々です。
また、私がここで「同性愛者」という言葉を用いるとき、それは第二にとして同性を
対象とした性行為を持つ者を意味します。当然、特定のパートナーを持つ場合もありま
す。言い換えますなら、同性愛者としてのライフスタイルを有している人々です。
ここで「行為と思い」について少しだけ触れておきます。イエス様はマタイ5章27
〜30節において行為としての姦淫と思いの世界における姦淫の安易な区別を撤廃され
ました。つまり、「行為に及ぶなら罪であるが、思いの世界にとどまるなら、それは罪
ではない」という態度は神様の前に正しくないのです。確かに実際の同性愛行為に及ば
なくとも、思いの世界での同性愛の実行は問題視されるべきでしょう。たとえ、実際の
同性愛行為に至らなくても、思いの世界においても誘惑と戦おうせず、実行の世界を歩
みつづけているような場合は第二のケースにあたると考えるべきでしょう。

後述しますが、私は前者と後者とは一定の差異があると考えます。特に倫理的な判断
に関しては、同性愛の指向者と実行者とは一線を引いて考察すべきだという主張は、こ
の文書を一貫して流れるものです。しかし、私が単に「同性愛者」と記した場合は、両
者とも含んでいるとご理解ください。意図的に区別する場合は「同性愛傾向者」「同性
愛実行者」などの表現を用います。

(3)同性愛者クリスチャンの現状
現代は多様化の時代と言われます。性のあり方も例外ではありません。従来、性は様々
な社会的秩序や生物学的制限の中にありました。特にキリスト教な倫理を伝統的な倫理
観として持つ社会においてはそうであったでしょう。性は結婚制度という社会的秩序に
よって保護され、生殖という目的を伴うものでした。動機としては、人格的な愛に基づ
くものであり、関係性については異性間のものとされてきました。そのように性は、結
婚、生殖、愛、異性間という四つの要素と密接に結びついてきました。
ところが世俗化の流れの中、性はこれら四つの要素を遊離しつつあります。その結果
として現代人の性のあり方は多様化の一途をたどっています。今や世俗された性は、神
が人類に与えた恵みではなく、人間の側が主体となり、多様なあり方から選択し楽しむ
ものとなっているかのようです。
そのような流れの一つに同性愛に対する社会的認知の問題があります。欧米社会では、
近い将来、幾つかの国家や州で同性間の結婚が法的に認められることが予想されていま
す。欧米のキリスト教会にとって同性愛問題はかなり身近で深刻な問題となっているよ
うです。
そのことは日本も決して例外ではありません。1998年、同性愛者であることを公
にしている男性が、日本基督教団の教師の資格取得試験を受験希望し、同教団内及び日
本のキリスト教会内に大きな波紋を投げかけました。今後、日本の教会でも、同性愛の
問題はいよいよ避け得ないものとなることが予想されます。そればかりか、これまでも
日本の教会内にも同性愛問題は潜在的な形で存在してきたはずです。

同性愛者を生み出す原因が何であれ、教会内でも少なくとも1パーセント、多けれ
ば数パーセントは同性愛者であると予想されます。しかし、そのような流れの中にあっ
ても、多くの(広義での)福音派の教会にとっては、同性愛の問題は未だに他人事のよ
うです。福音派教会に属する教職者や信徒の中には「日本の福音派の教会に同性愛者が
存在するはずがない」と堅く信じておられる方も少なくないようです。

 アメリカ社会における同性愛者と日本社会における同性愛者の社会的立場は全く異な
ります。日本社会に生きる同性愛者は徹底的な弱者です。アメリカ社会のように一定の
社会的認知や人権の保障を受けていません。それどころか存在さえ認められていません。
存在を知られようなら、差別と軽蔑の対象でしかありえません。そして、そのような差
別や偏見に対して抗議する事どころか、自分たちの存在さえ社会に対して示す事も困難
なのが現状です。特に教会の中で同性愛は最も汚れた罪のように受け取られています。
このような教会の一般的傾向は純粋に聖書に由来するとは言いがたいものです。むし
ろ、キリスト教文化の伝統に由来するものであり、聖書的にはバランスを欠いた態度で
あると私は理解しています。
また、教会外の同性愛者の世界でも「同性愛罪悪視の元凶はキリスト教」「教会は同
性愛者を受け入れない」という前提があるようです。そこで当然クリスチャン同性愛者
はいわゆる「カミングアウト」をすることができません。「カミングアウト」とは、同
性愛者が自分自身の性的指向を他者に明らかにすることです。

(4)私の個人的体験から
私自身、何名かの同性愛者クリスチャンに直接的に、あるいは間接的に出会ってきま
した。その方々の証言から推察するに、同性愛者クリスチャンは牧師などの霊的指導者
に対して自らの性的指向を話すことができないでいるようです。せいぜい、信頼できる
兄弟姉妹に打ち明けているのが現状のようです。牧師に受容されず、場合によっては軽
蔑され責められる可能性を考えるのでしょう。また、結果的に教会の交わりから疎外さ
れる心配などがあるのでしょう。
もし、この文書を牧師の方々が読まれるなら、どうか認識を新たにしていただきたい
と願います。会衆の中には、イエス・キリストによって明確な新生を受けており、同時
に自らの性的指向に苦しんでいる兄弟姉妹が存在する可能性があるということを。そし
て、多くの場合、最も信頼できるはずの牧師や兄弟姉妹にさえ話すことができずに一人
深い苦悩の日々を送っているということを。自らの性的指向のために、自分の救いを疑
い、神様の全能を信じきれず、主にある交わりの中にあっても徹底的な孤独を味わって
いる兄弟姉妹がおられるかも知れないのです。
また、牧師の方やクリスチャンの方で、何らかの方法で、ある方がクリスチャン同性
愛者であることを知ったとすれば、それは大変感謝なことだと考えるべきでしょう。潜
在的であった問題が顕在化するのは、問題解決においては前進の第一歩だからです。他
人事であったことが我が事になることは隣人愛を実践するスタート地点だからです。ク
リスチャン同性愛者にとっては、同じクリスチャンが一人でも自分の苦しみを理解し自
分を受け入れてくれていることだけでも、それは大きな慰め、希望、力となるのです。

(5)著者の立場
私はこの文書をいわゆる「聖書信仰」の立場に立って記したつもりです。私は基本的
に同性愛者の人権が擁護され、教会が同性愛者を受容するように願います。これは、ど
ちらかと言えば保守的な聖書解釈から導き出された私なりの結論です。私はそれが聖書
的であると考えますし、従来、教会がとってきた誤った態度はその点にあるように思い
ます。人権保護や受容と言う結論だけを見て、どうか、私が同性愛を容認していると誤
解されませんように願います。また、その結論がフェミニズム神学や自由主義的な聖書
解釈、あるいは状況倫理のような倫理学的立場に由来するものでないことはお断りして
おきます。
また、私は同性愛者の人権を擁護する一方で、同性愛行為(傾向でない)については、
原則的に罪であるという判断をしています。また、同性愛者間のパートナーシップや結
婚を認めません。それがいかに純粋な人格的な愛に根ざしていようともです。つまり、
私は、同性愛者の人権を認めつつ、同性愛を多様な性のあり方の一つとして認めないと
いう一見矛盾した立場を取っています。罪人を愛し受け入れる一方、その罪を憎み、そ
こからの解放を願う姿勢こそ、聖書的であると考えるからです。
保守的な聖書解釈に立たない方々からは当然、この点で批判されることと思います。
また、聖書的には判断不可能な部分を残している点でも、読者の中からは不満の声があ
ることを予想しています。しかし、現時点では、そのような矛盾した立場こそ、聖書的
であり判断不可能な部分を残す事こそが誠実な聖書解釈であると信じております。以上
のような著者の立場をご理解の上でご一読いただければ感謝です。


(6)本書の構成
この文書は前半が同性愛についての基本知識編と資料編、後半が聖書教理編と牧会編
となっております。基本知識と資料編では聖書以外の様々な学問的な研究成果から、同
性愛者の理解に役立つデータを提供できればと願っております。この中で同性愛者に対
する様々な偏見が解消されれば感謝です。相手を正しく理解する事こそ愛の実践におけ
る第一歩であると信じます。
後半では、まず、聖書教理編において聖書における同性愛に関する記述を取上げ、そ
れを解釈し、私なりに一定の倫理的判断を示します。その後、牧会編では、現実に同性
愛者本人やその牧会者、兄弟姉妹がこの問題にどう対処すべきか、その原則を記しまし
た。
手探りの中、始めたこの拙い奉仕が、同性愛に苦しむクリスチャン、また、そのよう
な方と苦しみをともにし祈り労してしておられる牧会者、兄弟姉妹のお役にたてばと願
いつつ。