(ザアァァァ…………)
雨が、降っている――
(ザアァァァ…………)
鈍色の空、色彩を失った世界――
(ザアァァァ…………)
独りぼっちの私、穿たれた心の空隙――
(ザアァァァ…………)
雨が、降っている――
――貴方に逢えない休日なんて……
☆ Sister Princess ☆
<Short×2>
sentimental afternoon
a revised edition
−RAINY DAYS AND SUNDAYS−
(ザアァァァ…………)
昨日の午後から降りだした雨は、お昼を回った今も一向に止む気配を見せな
かった。
「……はぁ……」
これで今日――いえ、昨日からだとそれこそ、数えるのもばかばかしくなる
ほどの回数を重ねたため息が、また漏れる。私は1人ベッドの上で膝を抱えて、
ぼんやりと窓の外を眺めていた。
そもそも、ことの起こりは昨日の夜の電話。本当なら今日はお兄様とのデー
トの筈だった――だったんだけど、お兄様にどうしても外せない急用が出来て
しまったとの連絡があって、敢えなくお流れ。元々ピクニックを兼ねて、遠方
の植物園にまで足を伸ばそうという計画だったので、この雨ではどのみち中止
だったんだけど……
「……はぁ……」
『気にしないで』なんて、言わなければよかった。無理にでも来てもらえれ
ば、たとえ出掛けられなくても一緒に過ごせたのに。千影も旅行でいないし、
お母様はお仕事で遅くなるから、2人っきりで……
でも、わがまま言ってお兄様を困らせたくない。お兄様が忙しくて、都合が
付かなくなるのはよくあることだから、仕方がない。
そう、仕方がない――
「……はぁ……」
――なんて、割り切れる筈ないじゃない。こんなこと、何度経験しても慣れ
る訳ないわよ。それでなくても、逢いたいと思ったときに直ぐ逢えるような環
境じゃないんだから……
ねぇお兄様、私がどれくらい落ち込んでるか判ってる?
昨日の夜、私がベッドの上でどれだけ泣いたか判ってる?
私が、お兄様のことどれだけ想ってるか判ってる?
(ザアァァァ…………)
「……はぁ……」
何だか、私の心の中まですっかり雨模様だわ。考えれば考えるほど、陰鬱な
気分になる。何もする気が起きない……
(ザアァァァ…………)
雨が好きだって人がいる。雨の日が好きだって人が。でも、私にはとても信
じられない。
ジメジメとした空気が体に纏わり付くこんな日が、
傘を差さなきゃ外も歩けないようなこんな日が、
――お兄様がいない、こんな日が……
「……はぁ……」
膝を抱えていた手を解いて、ぽてっとその場で横になる。こんなみっともな
い姿、お兄様には見せられないなぁ。
……私って、いつからこんなにお兄様依存症になっちゃったのかしら? 寝
ても覚めても、お兄様のことばかり考えちゃう。
いつも、お兄様のことを想ってる……
(ザアァァァ…………)
ふと口元に、吐息と共に苦笑いが浮かぶ。
いつから?
いつから、お兄様のことを?
いつから、好きになったのか?
そんなの、考えるまでもないわ。
物心付いた時から、私が私として在った時から、私にとってお兄様はこの世
で一番大切な存在だった。
草や木が、草や木としてそこに芽吹くように。
太陽や月が、太陽や月として空に輝くように。
私が私であるから、お兄様を愛しく思う。それ以上の理由は必要ないし最初
から意味がない。
私がその意味を必要としないから。私はお兄様を愛している――それだけで
十分だから。兄妹なのにとか、そんなこと私には関係ない。
……でもね、お兄様。矢っ張り一人きりだと不安になるの。
お兄様の笑顔が見たい。優しい声が聞きたい。その総てを私にだけ向けて欲
しい。
(ザアァァァ…………)
横になったまま、目を閉じて雨音に耳を澄ます。まるで、私の代わりに泣い
てるみたい。あんまり泣いてばかりだと、お兄様が心配するわよ……
(ザアァァァ…………)
咲耶は皆のお姉さんなんだから――
(ザアァァァ…………)
『……ひっく……おにいさまぁ〜、どこ〜……』
(ザアァァァ…………)
『ひっく……ぐすっ……おにいさまぁ〜……おにいさまぁ〜……』
(ザアァァァ…………)
『うぅ……おにいさまぁ〜……たすけて、おにいさまぁ〜……』
(ザアァァァ…………)
『……ひっく、ひっく………………おにいさまぁぁっ!!』
『咲耶!!』
『えっ!?……お、おにいさま……?……おにいさまぁーー!!』
『よかった、探したよ咲耶』
『うえぇぇぇん!! おにいさまぁ、おにいさまぁ!! こわかったよぅ!!』
『よしよし、もう大丈夫。僕はここにいるよ、咲耶。だからもう大丈夫』
『ひっく、ぐすっ…………うん』
『……それにしても、心配したよ。1人で森の奥に行っちゃダメって言ってあ
ったでしょ?』
『…………』
『ほら、こんなにずぶ濡れになって……早く皆のとこに戻らないと風邪引くよ』
『……おにいさまも、ずぶぬれ……』
『ああ、僕は別に――』
『ごめんなさい!!』
『え?』
『ごめんなさい、おにいさま!! もうしないから、だから……だから、わた
しのこと、きらいにならないで!!』
『……僕が咲耶のこと嫌いになる訳ないでしょ』
『……ホント?』
『たとえ咲耶が僕のことを嫌いになっても、僕は咲耶のことを嫌いにならない
よ』
『わ、わたしだっておにいさまのこと、きらいになったりしないわ!!』
『じゃあ、何の問題もないよね?』
『…………うん!』
(ザアァァァ…………)
『…………あのね、おにいさま』
『うん?』
『わたしね……しっとしてたの』
『嫉妬?』
『そう。……おかあさまはね、いつもいうの――咲耶はみんなのおねえさんな
んだから――って。だからわたし、いつもしっかりしてなくちゃ、わがままい
わないでがまんしなきゃっておもってたわ。だってわたしはおねえさまなんだ
もの』
『…………』
『でもね、やっぱりおにいさまのことだけは、がまんするのイヤなの! だれ
にもとられたくないの!』
『咲耶……』
『だから、みんなとたのしそうにあそんでるおにいさまをみて……わたしもか
まってほしくて……きをひきたくて、それで――』
『1人で森の中に入ったの?』
『ホントにごめんなさい……でもやっぱりわたし、みんなのおねえさまにはな
れないわ。私は、おにいさまのいもうとなのよ……』
『……咲耶の気持ち、少し判るような気がする』
『え!?』
『僕も皆のお兄さんだから。だから、いつもまず皆のことを考えるよ。だけど、
それはちっとも嫌なことじゃない。僕は皆のこと大好きだから。皆のお兄さん
でいられて、とってもしあわせだよ』
『…………』
『咲耶は皆のこと嫌い?』
『そんなことないわ!』
『じゃあ今まで通り、皆の優しいお姉さんでいて欲しいな』
『…………うん』
『そのかわり、僕は咲耶のこと見てるから』
『え!?』
『僕は咲耶が色々我慢して、皆のために頑張ってること知ってるから。いつも
咲耶のこと想ってるから。だから、咲耶も頑張って!』
『……お、おにいさま……』
『もし困ったことがあったら、いつでも駆け付けるから。絶対に助けるから……
今日みたいに、絶対!』
『おにいさま…………ありがとう。それじゃあ、おにいさまのことは、わたし
がおもっててあげるね!』
『え!?』
『みんなのためにいつもがんばってるおにいさまを、わたしはいつでもおもっ
てるわ』
『……ありがとう、咲耶』
『ふたりともいつまでも、ずっとずぅ〜っとおもいあっていられたらとっても
ステキ……ね、おにいさま』
『うん。そうだね……』
『あのね、おにいさま。わたしね……わたし、おにいさまのこと――』
(ザアァァァ…………)
『おにいさまのこと――』
(ザアァァァ…………)
「『…………だいす……き……』」
(ザアァァァ…………)
「……ん……あ、あれ……?」
私、いつの間に寝ちゃったのかしら?
(ザアァァァ…………)
窓の外はもう真っ暗だった。今何時なのかしら……ベットの上で、少し身じ
ろぐ。でも、矢っ張りまだ何もする気にならなかった。もう、このままご飯も
抜いちゃおうかな……なんて思いながら寝返りを打って――
「おはよう、咲耶」
――ぽかんと口を開けたまま、固まってしまった。だって……だって、なん
で? なんでお兄様が? だって、今日は来れないって……私、気にしないで
って言って……でも、目の前にはずぶ濡れの――夢から抜け出てきたみたいな
お兄様が立ってて……あの時みたいに……いつもみたいに、優しく微笑んでて
……私まだ夢の続きを見てるの?
「あの……咲耶? あ、もしかして怒ってる? ごめんね。これでも目一杯急
いで来たんだけど……あ! それとも勝手に部屋に入ったこと怒ってるの?
何回もノックしたんだけど返事がなかったから、一応確認しようと思って中を
覗いたら咲耶が眠ってて……起こそうと思ったんだけど、なんか気持ちよさそ
うに寝てたから起こしづらくって……それにその……寝顔も、その……かわい
――」
「お兄様ぁーーーっ!!」
急に困ったように話し出したお兄様をぼうっと見ている内に、段々混乱して
いた意識もはっきりしてきて……気付いたらお兄様の胸に飛び込んでいた。
「さ、咲耶!?」
夢中で抱き付く。悲しみと、淋しさと、驚きと、嬉しさと――ごっちゃにな
った感情が爆発して、涙と一緒に溢れ出す。
夢から抜け出て来たみたいに――あの時と同じように……
「……よしよし、もう大丈夫」
――あの時と同じように……
「僕はここにいるよ、咲耶。だからもう大丈夫」
どれくらいそうしていたのか、お兄様にしがみついて頭を撫でられ続け、落
ち着きを取り戻した私はその時になってようやく思い出したように慌てた。
「……お、お兄様ずぶ濡れ!!」
水も滴るいい男――なんて言ってる場合じゃないわ!
「ああ、出先でバイク借りて直接来たから……」
「ど、どうして……」
そんな無茶を……?
「それが、1番早く来られそうだったんで……」
「もう! 風邪引いちゃうじゃない! それ以前に事故でも起こしたらどうす
るつもりよ!――って、今はとにかくその姿を何とかしないと。取り敢えず濡
れてる服は全部脱いで、タオルで体拭いて。その間に私はお風呂にお湯張って
おくから!」
畳み掛けるように言いながら、階段を駆け下りる。
「え!? いいよ、シャワーで……」
「ダメ! ちゃんと体温めないと」
今日はあんまり気温が高くないから、ホントに風邪引いちゃうわ。
「早くしないと、私が脱がせるわよ!」
「わ、判りました」
「素直でよろしい」
……でも、ちょっと残念かも。
(ザバァァ……)
「ん〜〜……ふぅ……いいお湯……」
「……あのぅ……」
「ん? なぁにお兄様?」
伸ばしていた手をそのまま頭越しに動かして、後ろの頭ひとつ高いところに
あるお兄様の首に絡ませる。
「なんで咲耶が一緒に入ってるの?」
「だって、さっきびしょ濡れのお兄様にしがみついたから、私もお洋服濡れち
ゃったんですもの」
「いや、だからって一緒の浴槽に浸かる理由にはならないような……」
困ったような、嬉しそうな、微妙な苦笑いを浮かべるお兄様の顔を、首に絡
めた腕でぐいと引き寄せ、顎先に軽くキスする。
「そんなことより、ちゃんとお湯に浸かって体を温めて」
お兄様の膝の上に乗って、その胸板にもたれ掛かった私の背中越しに伝わっ
てくる体温は、お湯の中だというのに大分低く、ひんやりとしていた。
「こんなに冷え切って……」
首に回していた手を解いて、今度はお兄様の手を取る。冷え切ったその手に
頬擦りしてから、手の甲に軽くキス。
「あはは……」
もう! 笑って誤魔化そうとして! この雨の中、バイクなんかで来るから
……雨に濡れながら強い風に当たれば、体が冷えるに決まってるじゃない!
「あの……咲耶。もう少し離れて……僕の体が暖まってからの方がいいよ……」
そう言って私の体を離そうとするけど、私は逆に一層お兄様に密着する。私
のために、こんなになってまで駆け付けてくれた……そのことに対して、申し
訳ない気持ちと嬉しい気持ちと……その嬉しいと思ってしまう気持ちも申し訳
なくて――あ〜〜もう、訳判んないっ!!
「えいっ!!」
「わわ、ちょっと……」
お兄様の両腕を、脇を通して自分の胸の前で交差させて、ぎゅっと抱え込む。
丁度お兄様に抱きすくめられるような格好。実際に抱いてるのは私なんだけど
……
「どうもありがとう、お兄様……」
「え?」
「……逢いに来てくれて」
「そんな……約束破ったのは僕の方だし……」
「でも、逢いに来てくれたわ……」
「…………」
「私ね、淋しくて……お兄様に逢いたくて、どうにかなっちゃいそうだったの」
「そっか……」
そう言って、お兄様も私を抱く腕に力を込める。その心地よい締め付けが、
私をたまらなく幸せな気持ちにする。
お兄様も、私を必要としてくれている――そう思えるから。
「……夢を……」
「え?」
「夢をね……見たの……」
夢見心地の気分がそれを連想させたのか、唐突にさっきの夢を思い出す。
「お兄様は憶えてる? 10年ぐらい前かしら……私が森で迷子になって、そ
れをお兄様が見付けてくれた時のこと」
暫しの沈黙。振り向かなくても気配で判る。
「……もちろん、憶えてるよ」
お兄様ったら、照れてる。
「それじゃあ、その後のことも……憶えてる?」
「うっ……」
悪戯っぽい笑顔を浮かべて見上げると、予想通りお兄様は照れくさそうにそ
っぽを向いていた。
「ねぇねぇ、まさか忘れちゃった?」
「……忘れるわけ……ないよ……」
照れ隠しに私を引き寄せたお兄様の唇が、耳朶の裏に押しつけられる。
「僕と咲耶が、初めてキスした時のこと……忘れるわけないよ」
「お兄様……」
身をよじって、再びお兄様の首に両腕を絡めると、そっと唇を重ねる。
私も憶えてる。
忘れるわけがない。
お兄様との初めてのキス。
それまでの親愛の情を表わすようなものじゃなくて、互いが互いを求めて交
わされた――異性を意識したキス。
「ん……」
ちょうど今みたいに、体は冷え切っているのに、重ねた唇と心の奥の深いと
ころがじわじわと温かく、そして熱くなっていく感覚。
「……ん……ふぅ……」
どちらからともなく、差し込まれた舌先を絡め合う。
もっと深く、もっと強く、互いを求める水音だけが浴室に響く。
頭の芯が痺れていくような、甘美な感覚。そうして私達は、しばらくの間お
互いの体と気持ちを重ね合わせ続けた。
「温まった? お兄様」
「……う〜〜ん……っていうか、のぼせた……」
私の部屋に戻って来てから、ベッドに腰掛けてぽーっとしているお兄様の隣
に、くっつくようにして私も腰を下ろす。
「じゃあ、ちょっと胸元緩めたら?」
そう言いつつ素早く手を伸ばして、お兄様のパジャマのボタンをひとつ外す。
因みにお兄様のパジャマは、私が用意したお揃いの柄。お兄様がブルーのスト
ライプで、私がピンクのストライプ。なんだか新婚夫婦みたいで、結構気に入
ってるの。
「こ、こらこらっ」
「ふふっ、だ〜〜め」
慌ててボタンを留め直そうとするお兄様の両手を捕まえて、ペロッと舌を出
す。
「だめって、あのね咲耶さん……」
ちょっと呆れたような感じで眉をひそめるお兄様。
「えいっ!」
「うわっ!?」
そんなお兄様の表情を無視して、飛び付くように一緒にベッドに倒れ込む。
昨日から落ち込んでいた反動なのか、自分で自分の感情が上手くセーブ出来な
いみたい。お兄様に構って欲しくて仕方がない。
「ちょ、ちょっと咲耶――」
「にゃん」
空いた胸元をペロリと軽くひと舐め。
「うわわっ、ちょっとちょっと――」
「んっ、んっ、んっ」
そのまま覆い被さって、鎖骨と左右の首筋にキス、キス、キス。
「こ、こらくすぐった――」
「んっ、んっ」
顎にキス、頬にキス。
「咲んっ――」
「ん〜〜」
唇に――
「――ぷはっ……ふぅ……どうしたの? 咲耶」
「どうしたって?」
まだ覆い被さったまま、顔だけを少し離す。怪訝そうな表情で私の瞳を覗き
込んでくるお兄様に、首を傾げて問い返す。
「いや、なんだかいつも以上に甘えん坊さんというか……さっきからキスが多
いなぁと……」
「むぅ……なによう。イヤなの? お兄様ぁ」
言って、はむはむお兄様のほっぺを甘噛みする。
「い、嫌じゃないけど……」
「だってキスしたいんだもの。したいからするのっ!」
ぷくっと頬を膨らませて宣言する私に、苦笑いを浮かべるお兄様。
「やれやれ……千影や春歌が、今の咲耶を見たらなんて言うかな」
私の頬をつんつん突っつくお兄様に、私はうぅーっと唸ったままなにも言え
なくなってしまう。
「お姉さんなのにそんなに甘えん坊さんなんて、可笑しいですよぉ〜」
つんつんつん。
「…………」
声の調子に少し意地悪いものが混ざる。お兄様ったら絶対判ってて、わざと
言ってる。
「恥ずかしいですよぉ〜」
私がむっつり黙り込んでいると、からかう調子が益々強くなる。
「…………」
つんつんつん。
「…………」
つんつんつん。
「…………」
つんつんつん。
かぷ。
「いたたたっ!」
突っつく指にかぷっと噛みつく。慌てて指を振るけれど、私はくわえたまま
離さない。ふるふるびちびち、構図的には釣り人と魚状態だ。立場的には逆な
気もするけど。
「ご、ごめんっ! ごめんなさいっ! もうからかわないから離してっ!」
涙目で謝罪するお兄様。それでようやく私は口から指を解放する。
「うぅぅ……い、痛い……」
「お兄様が悪いんですぅ! 意地悪なこと言うから!」
最年長のお姉さんだからこそ、2人きりでもない限りこうして思う存分お兄
様に甘えることは出来ない。それを判ってて、ああいう意地悪を言うんだから
これは当然のお仕置き!
「ほんの冗談なのに……」
恨めしそうなジト目を私に向けながら、指をさするお兄様。そこには見事に
赤くなった歯形が浮いている。
「な、なによぅ……そんな目で睨んでもダメですからねっ! 悪いのは、意地
悪なお兄様の方なんだから!」
ぷいっとそっぽを向いて抵抗するけど、僕って可哀相――とか、咲耶は酷い
娘だなぁ――とかブツブツ呟いているお兄様の声を無視することなんて、到底
出来そうもない。うぅぅ〜〜……
「……いぢわる」
そっとお兄様の手を取って、指先に口づける。赤い痕に沿って、舌を這わせ
ながら上目遣いにお兄様の顔を見やると、やっぱり意地悪そうにクスクス笑っ
ていた。
「もうっ! お兄様ぁっ!」
「ゴメンゴメン。冗談だよ、冗談」
「冗談って、どれが冗談なのよ……」
今度は歯を立てずに、掴んでいた指をぱくっとくわえると、覆い被さってい
た体勢から、お兄様の隣にコロンと寝転がる。そのまま、いじけた目つきでう
ーっと睨むと、笑いながら私がくわえたのと反対側の手を、そっと私の頬に添
えた。
「許してよ……兄としては、可愛い妹はからかいたくなるものなんだから」
「か、可愛い……?」
そう言いながら撫でられていると、頬がどんどん熱くなっていくのが自分で
もよく判る。どんなにいじけた態度を取ろうとしても、顔がにやけて来てしま
うんだから、私ってばホント現金なものだ。
「……許してくれる?」
優しく微笑みながら問うお兄様。当然私に否はない。ないんだけど――でも、
やっぱりなんだか恥ずかしいので、照れ隠しに交換条件を出してみる。
「しょうがないなぁ……でも、その代わり……」
くわえていた指を放して、頭を少し持ち上げる。すると、お兄様も心得たも
ので、直ぐに私の頭とベッドの間にその腕を差し入れてくれる。
「宜しければどうぞ」
「うむ。苦しゅうない」
なんて言いながら、差し出された腕の上に頭を乗せて、うん! 定位置確保。
しばらくそのまま目を閉じて、耳を澄ましてみる。
(ザアァァァ…………)
雨は相変わらず降り続いていた。
――降りしきる雨。
――泣いていた私。
昔も、そして今も。
あの時から、お兄様と共に支え合っていける存在になろうと心に誓って、頑
張ってきたつもりだったけれど、結局私は未だにお兄様の負担になっているの
かしら? 森で1人泣いていた頃と少しも変わっていないのかしら?
「……ねぇ、お兄様……」
「うん?」
やっぱり今日の私はどうかしている。感情の波が自分で制御できない。勝手
にお兄様に甘えて、そのことで――自分自身の殻を破れないことに、勝手に自
己嫌悪して。
「もしも……」
頭の隅の方で、そんなバカなこと言っちゃダメと叫んでいる自分を確かに意
識しているのに、私の口は勝手に言葉を紡ぎ出す。
「もしも、お兄様に好きな人が出来たら……ちゃんと私に言ってね」
――何を言ってるんだろう、私は。
頭の中が真っ白になる。
何故お兄様を信じられないのだろう。
花を付ける意義に疑問を持った草木は、もう枯れるしかないというのに。
自身を照らす太陽の光を否定した月は、もう輝くことはないというのに。
「……うん……判った」
違う。
信じられないのは、自分自身。
好きになれないのは、雨の中で泣いてる私。
「お兄さ――」
「――冗談だよ」
とても冗談を言っているとは思えない、低く錆を含んだ声。お兄様のこの声
音を聞くのは、いつ以来だろう。私は慌てて半身を起こすと、お兄様の顔を覗
き込む。その顔は矢っ張り、滅多に見せない真剣な――それでいてどこか寂し
そうな……悲しそうな表情をしていた。
「冗談――だけど……こういう冗談は、あんまり好きじゃない」
「……ごめんなさい」
お兄様にこんな表情をさせてしまう自分自身が、情けなくて悲しくなる。視
界がぼんやりと滲んでくる。
雨の中で泣いてる私は、嫌いなのに。
「ねえ咲耶」
「……はい」
「僕って、咲耶の負担になってるのかな?」
「――!?」
驚きに言葉を失う。違う。そう思っているのは――負担になってるのは私。
「違うわお兄様!! 負担になってるとしたら、それは私がお兄様の――」
「――僕は君の総てを受け入れる」
「えっ!?」
再び言葉を失う。その私の目元にそっと指をあてがって、涙を拭いながらお
兄様は真剣な表情のまま話し続ける。
「もしも咲耶に一片の理もなくて、世界中の総ての人が咲耶のことを否定して
も、僕は咲耶を裏切らない。咲耶のいいところも、悪いところも総て肯定する。
その総てを、僕は受け入れる――受け入れたい」
「……おにい……さま……」
「でもね、それは……その想いはきっと僕自身を……僕の総てを咲耶に受け入
れて貰いたい――そのための、見返りを得るための卑しい代価でしかないんだ」
「……お兄様、それはちが――」
「聞いて咲耶。今は違うと思っていても、僕の気持ちは……僕たちの関係は、
きっといつか咲耶にとって負担になる。自分の気持ちが揺るぎないと思ってい
ても、世界には僕と咲耶2人だけじゃない。圧倒的多数の他人が存在している
んだ。そしてその人達は、それぞれに自分の世界を持っている。自分の世界の
理念と相容れない世界を受け入れることは、とても難しいことだと思うんだ」
「…………」
「そして僕たちの世界は、その他の世界同士が共有している可能性の高い意識
にとって、恐らく受け入れがたいものなんじゃないかな……違うかい?」
その言葉に私は暫し躊躇った後、俯いたまま首を左右に振った。
「僕の歪んだ想いは、きっといつか咲耶に何らかの影響を与える。負担になる
時が来るんじゃないかと思うんだ。それが僕は一番恐ろしい……怖いんだよ。
だから、本当は、僕達、は――」
「――私、今笑えてる?」
「えっ!?」
「お兄様、今私、笑えてるかしら……?」
「咲耶……?」
「私ね、お兄様。泣いてる自分が嫌い。だって私が泣いていたら、お兄様が迷
惑するもの。私はお兄様の隣にいつも立っていたい……お兄様を支えられる存
在になりたい。お兄様に助けられることは、とても嬉しいことだけれど……で
もそれだけじゃダメなの。私もお兄様の力になれるようじゃないと、ダメなの」
「…………」
「だから、泣いてる自分は嫌い。ねぇお兄様。お兄様のお話を聞いて、私……
今どんな表情してる?」
「…………とても、辛そうで……悲しそうな顔、してる」
「お兄様も、凄く辛そうで悲しそうな顔してるわ。それが総てじゃないの?」
そっとお兄様の頬を両手で挟み込んで、じっと瞳を見つめる。
「お兄様の想いが醜く歪んでいるなら、きっとそれは私も同じ。私の想いも歪
んでるんだわ。私もお兄様の総てを受け入れたい、お兄様の総てが欲しい。だ
からもし、この想いが間違っているなら私は正しくなんてなりたくない。間違
ってて構わない。お兄様と一緒にいる私は、お兄様を愛してる私は――笑顔に
なれるもの! それが私にとって唯一の真実よ!」
「咲耶……」
言葉とは裏腹に、お兄様と一緒にいるのに、こんなに愛しているのに、止め
どなく涙が溢れてくる。笑顔になれない。それはきっと――
「ごめん」
お兄様が私を愛してくれていないんじゃ? そんな不安があるから。相手を
好きになる行為は、自分のことを好きになって欲しい想いの裏返し――それは、
きっと当たり前のこと。だって、自分が好きな人には自分のことも好きになっ
て欲しいと思って当然ですもの。
「ねぇお兄様。お兄様は私の笑顔……好き?」
「うん」
「じゃあ……私を笑顔にしてよ」
そっと、瞳を閉じる私。
重なる唇。
瞳を開けると、目の前には笑顔のお兄様。
「お兄様っ!!」
そのままお兄様の首にしがみつく。また涙が溢れてくる――笑顔のままで。
泣き笑いの私をお兄様はそっと抱きしめて、優しく頭を撫でてくれた。
泣いてる自分は嫌い。
でも、今なら少しは泣いてる自分も受け入れられそうな――そんな気がした。
(ザアァァァ…………)
外の雨はまだ降り続いていたけれど、私の心はとても穏やかだった。腕枕か
ら伝わってくるお兄様の温もりが、お兄様の匂いが、私を幸せにしてくれる。
「あっ、そうだ」
と、急にお兄様が何かを思いだしたように口を開いた。
「一応、言っておくけど」
「なぁに? お兄様」
「…………咲耶」
「はい?」
「だから……咲耶」
「だから、なぁに?」
「…………ま、いいか」
苦笑いを浮かべるお兄様を前に、私の頭の中ではクエスチョンマークがぐる
ぐると回っていた。お兄様ったら一体何を……? そう考えて首を捻っている
と、ふとさっき自分で言った言葉を思い出した。
『もしも、お兄様に好きな人が出来たら……ちゃんと私に言ってね』
「――! ね、ねぇお兄様っ!! 今のって――」
「あー何でもない何でもない」
慌てて上半身を起こした私に、ゴロリと背を向けるお兄様。
「でも今のって私のことをす――」
「あー聞こえない聞こえない」
「もーーーっ!! そういうことはもっとストレートに、ハッキリと言って欲
しいものなのよっ!!」
「ぐーぐー」
「寝るなぁぁぁーーーーーっ!!!」
そしてまた、いつものじゃれ合いが始まる。
(ザアァァァ…………)
雨の日も悪くないわね。
しっとり潤った肌を、お兄様に隅々まで触れて貰えるこんな日は。
お兄様と相合い傘で外を歩けるこんな日は。
お兄様が側にいてくれる、こんな日は――
雨の日も満更じゃないかも――ね。
−That's all.−
(1st edition : 2000/06/24)
(2nd edition : 2001/12/29)
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