兜町界隈の散策 |
日本経済の中枢? 兜町。 日本橋の1本下流側の江戸橋、さらにその下流側に位置します。
江戸橋の南側たもとから南を見ると郵便発祥の地「日本橋郵便局」。
この郵便局前から東方側を眺めると高速道路の環状1号線がある。
東に歩いて2分、高速道路をくぐり抜けると、すぐ右斜め前には「東京証券取引所」が、
また、左手に小さく「兜神社」がある。
頭上には先ほどの高速道路が覆い被さっており、
これがあの「商業の神様」かと思うと、ちょっと拍子抜けの感。
左手の柱は高速道路の橋桁です。
それでもこじんまりと整った神社です。 鳥居をくぐった右手には由来の書かれた看板があり、
いわれが書かれています。 が、かすれていて読めません。 氏子一同よりなるパンフレットもありました。
階段を上がって左手には「兜岩」が置かれています。
パンフレットによると、いわれにはいくつかあるようですが、その裏付けはない様です。
1:源義家が東夷鎮定のため兜を埋め、塚となし、鬼塚といった。
2:源義家が東夷のみぎり岩に兜を懸けて戦勝を祈願した。
3:俵藤太秀郷が平将門の首を打って兜に沿えて持ち来れるが、兜をば茲(ここ)に埋めて塚となす。
とか。
横から見るとなんの変哲もないが、後から見るとスパイホッピング中のマッコウクジラですかね。
神社の裏側は日本橋川。 向こうの日本橋川のコンクリート土手が見える。
この当たりで落っこちると土手がじゃまして上に上がれない(上がるスロープが無い)。
左手は楓川がありましたが、高速道路を作ったときに埋め立てられたとか。
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兜神社を横に、東京証券取引所に沿ってさらに2分、東に進むとそこは「鎧橋」。
ここには明治の5年まで渡し場があり、「鎧の渡し」があったようです。
渡しは、伝説によると平安の昔に、源頼義が奥州討伐の際に暴風逆波にあい、鎧を海中に投げ入れて竜神に祈りを捧げ、無事渡れたことに由来しているとのこと。 別の説によると平将門が鎧兜を納めたところとか。
橋マニアには結構いわく付きの橋のようです。 左下写真は南側から北側を見ていますが、
高速道路(6号線)が頭上を覆い、なんとも景色が悪い。 向こうに渡ると下手側に広場があり、
この橋の由来が書かれたプレートがはめ込まれています(写真右下)。
これによると、「当時の豪商が私費で架けたとのこと。 その後、米や油の取引所、銀行、株式取引所などが
開業し、大いに賑わった」 と有ります。
現在の橋は昭和32年に完成。 「ゲルバー桁橋と呼ばれるもの」とのことですが素人にはさっぱり???
案内には「橋の外側に間隔を置いて突き出ている鉄骨が、ごつごつした鎧を感じさせます」 とあるのですが、
ちっとも感じませんでした。
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先ほどの「兜神社」から高速道路環状線に沿って南下すること約2分。
車の走る道に出て右に見えるが「海運橋 跡」、左に進むと「銀行発祥の地」が有ります。
まずは左に行ってみましょう。 そこは「みずほ銀行 兜町支店」
←ごく普通の銀行ですが入口右の壁に細長いプレートが埋め込まれています。(看板の下方向)
拡大すると・・・・・→
さらに拡大すると 、
「銀行発祥の地 この地は明治6年6月11日(1873年)
わが国最初の銀行である第一国立銀行が創立されたところであります。 昭和38年6月建立」
明治になって時の政府は国立の銀行を創りました。 最初は明治5年にできた国立銀行条例で
4行が設立しています(大阪と新潟と北海道)。
ここはその内の一つ。 それぞれの銀行で銀行券(通貨)を発行するようになりました。
条例改正で明治12年末には153行ができています(それぞれ通貨を発行)。
西南戦争(明治10年)の勃発に伴い、戦費確保のために紙幣が増発された結果、
激しいインフレとなったのを契機に、通貨安定の必要性が認識され、
中央銀行としての日本銀行を創設して通貨発行が一元化されています。
ちなみに日銀は明治15年創立。
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今度は左に行ってみます。
曲がったとたん、正面には高速道路の橋桁。 そこには駐車場への入口があります。
その手前の植え込みの中(左上の写真の右隅。 木の横です。)にひっそりと(堂々と?)石柱が建っています。
正面には「海運橋」、 側面には「紀元二千五百五年六月建」と刻まれています。
高速道路をくぐり、反対側にも石柱があります。 植え込みに隠れるように「かいうんばし」と書かれています。
その前に謂われを書いた看板がありますが、これがなければここが旧蹟であるとは判りませんでした。
海運橋は、楓川(現高速道路のあるところ)に架けてあった橋で、明治八年に長さ18m、幅11mのアーチ状石橋に架け替えられたとのこと。 大震災で潰れ、昭和2年には鉄橋に。 この時二基の親柱が記念に残されています。
再建された鉄橋は、昭和三十七年の楓川の埋め立ての際に撤去されています。