江戸川河川敷 わたし舟
京成金町線柴又駅より徒歩10分
矢切の渡しは、江戸時代初期、地元民専用に耕作・日用品購入・社寺参詣などの
目的のために、徳川幕府が1616年(元和2年)に、利根川水系河川の街道筋の
重要地点15ヶ所を定船場として指定し、それ以外の地点での渡河を禁止したそう
です。
その1つが国分道に架かるこの矢切の渡しで、主に近郊の農民が対岸の農耕地に
渡るために利用していたようです。
この渡しが全国的に有名になったのは、明治時代に入り、伊藤左千夫の小説『野菊
の墓』(1906)によって。現在川向こうの千葉県松戸市矢切側にこの小説の文学碑が
建立されています。
このほか、昭和57年(1982)には歌謡曲『矢切の渡し』の大ヒットにより、再び脚光を
浴びることになりました。 現在、都内に残る唯一つの渡し場で、手漕ぎの和船が対岸
の松戸市下矢切との間を往復しています。
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