貴族の暮らし もとへ。
平安貴族の暮らしは宮仕えであり、政務(諸国からの重要文書を天皇に申し上げて裁可をもらう”官奏”という政務やそのほかの雑事)のため出勤したり、行事のため寺社に派遣(仁和寺に赴き大般若経供養に参加する僧侶を決定すること、清水寺の修理現場を視察、万灯会という灯籠に火をともして死者の供養の行事の執り行う。)されたり午後から夜になることも多かったとのことです。
もともと笛や琴とともに謡われる比較的単純な歌謡があったが、儀式などを荘厳にするため雅楽が大陸から入ってきて、多くの楽器の編成で合奏する形態と音楽理論をもっていた。平安時代になると雅楽は定着し舞楽としてまた舞を伴わない楽器の合奏をしても演じられた。貴族の男性も女性も楽器が弾けることが、たしなみとなり、何人かが集まると合奏となることがあったとのことです。
貴族達は政務の間に貴族社会の交流のなかで、和歌を詠みあったり、漢詩文を作ったり、香をきいたり、絵をかかせたり等の遊びを楽しんだようです。
貴族の住まい
平安時代の貴族の邸宅は”寝殿造り”とよばれ、敷地の中央に寝殿とよばれる東西棟の主殿を、さらに対屋(たいや)とよばれる南北棟の建物を配置し、これらの建物は廊で結ばれていました。
寝殿の南側には南庭とよばれる白砂を敷き詰めた広場、さらにその南には池などの庭園が広がり、東西の各々の対屋からは庭園を囲むように廊がのび、廊の先端に泉殿、釣殿がありました。
寝殿造りの様式が成立するのは10世紀から11世紀初頭にかけており、発掘調査によると奈良時代、平安京の貴族邸宅には池を中心とした庭園はほとんど見られないとのことです。寝殿造りのもとといわれる紫宸殿の前にも池はなく、白砂がひろがるのみであったとのことです。平安時代の初頭(9世紀前半)池は天皇の京内裏宮など特別な施設にのみ存在したようです。
当時の建物(寝殿)の構造は貴族の邸宅では柱間は3Mで面積が252平方メートル屋根は檜皮葺き(ひわだぶき)柱は丸柱、床は板敷で内部を仕切る壁はほとんどなく柱が並ぶだけであった。寝殿の中で壁を持つ空間は東西のいづれの端の2間を塗籠(ぬりごめ)という壁塗りの部屋とした。これを寝所や宝物の安置所としたようです。
冬をこのような建物で過ごすのは大変で、十二単のような衣装で寒さ対策としたのでしょう。
参考文献 京都御所 庄司成男著 SUIKO BOOKS
平安京と王朝びと 源氏物語の雅び 村井康彦監修 京都新聞出版センター