飛鳥時代  
645年 大化改新  武蔵国国府がおかれ東山道設置

奈良時代  
710年 平城京遷都 武蔵国に高麗郡をおく
741年  737年をピークとする疫病の大流行や飢饉という未曾有の国家危機に仏教の力で国家を安泰にさせようと、七重塔や釈迦仏像の造仏をおこなう。
続日本紀よると 聖武天皇は恭仁宮において諸国に国分寺・国分尼寺の建立を命ず
758年 武蔵国に新羅郡をおく  武蔵国分寺完成
784年 長岡京遷都

平安時代
794年  平安京遷都
939年  天慶2年 平将門の乱
1023年 疫病除去のため諸国国分寺に観音像安置

鎌倉時代
1192年 源頼朝、鎌倉幕府を開く
1333年 鎌倉幕府滅亡  分倍河原の合戦で武蔵国分寺焼失



律令国家の確立:

古代,中央政府の行政官として中央からから派遣された国司(こくし)が政務をとる官庁域を国庁(こくちょう)ないしは国衙といい,その所在地として計画的に設定された都市を国府といった。

8世紀初頭には、本格的な法典体系である大宝律令が公布され、中央集権的な律令制が布かれることとなった。
律令国家は、列島を60あまりの”国”に分け、その下に”郡”、末端に”郷”というように行政組織を3段階に区別した。”国”へは天皇の名代として貴族を国司として派遣し、”郡”には地方の豪族を郡司として任命し、”郷”には郷長を置いて民衆の支配にあたった。

現在の東京都にあたる地域に、多磨、荏原、豊島の三郡が、神奈川県に都築、久良、橘樹の三郡が、埼玉県は足立、新座(新羅)、入間、高麗、比企、横見、埼玉、大里、男衾(おぶすま)、幡羅(はら)、榛沢、賀美、児玉、那珂、秩父の15郡がおかれた。郡の下におかれた郷は120もあった。

古代,中央政府から派遣された国司が政務(祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司る)をとる官庁域を国庁(こくちょう)ないしは国衙(こくが)といい,その所在地として計画的に設定された都市を国府といった。国司は非常に重要な位置に置かれた。国司の職務は律令制(8世紀初頭より大宝律令が公布された)を根幹的に支えた班田収授制による戸籍の作成、田地の班給(国司が公田数を検田帳や国図によって把握)、租庸調の収取などから構成されていた。


律令制の崩壊:

10世紀頃から、律令制で規定していた戸籍・班田収授による租税制度がほぼ崩壊し土地の国の所有が崩れていく。国司は一定額の租税の国庫納付を果たしさえすれば、朝廷の制限を受けることなく、それ以上の収入を私的に獲得・蓄積することができるようになった。

一定の租税収入が確保されるシステムが確立すると、国司に任命されても任国へ赴任しない国司が多数現れるようになった。そして任地へ派遣される国司の中で実際に現地赴任する筆頭国司を”受領”と呼ぶようになった。これに伴い、受領の勢力下にある公領は、受領の私有財産のように扱われ始めた。

当時、国司に任命されたのは主に中級貴族だったが、彼らは私的に蓄積した富を摂関家などの有力貴族へ貢納することで、生き残りを図った。また、国司に任命されることは富の蓄積へ直結したため、中級貴族は競って国司への任命を望み、また重任を望んだ

河内源氏が平忠常の乱(1029年)を鎮圧した後、軍事物資の産地としての東北に目をむけ、在地の豪族の争いに介入を繰り返すようになり前9年の合戦(1051〜62年)後3年の合戦(1083〜87年)などがおきた。武蔵国の豊島氏が忠臣であったように源義朝は東国武士団の組織化を行うようになった。

久寿2年(1155年)の大蔵合戦(秩父平氏)の家督争いに源氏が介入、武蔵・相模・上野の武士団を巻き込んで争いこれらにより源義朝の位置は不動のものとなった。


平氏政権の起こり:

京都で平治の乱(1159年)が勃発。
源氏が敗れ平氏政権がスタートした。
武蔵国も平家知行国に編入され、多くの武蔵の国の武士団が平家家人となっていった。


東国の人々:

東国の人々はわかりにくい言葉を話すが勇猛果敢で勇ましいと都では特別視され武蔵国の人々の軍事的潜在能力の高さにおいて、防人の挑発や対蝦夷政策で重要な役割を担っていた。
それらの人々以外にも、”日本書紀”によると東国方面(武蔵国など)には未開地が多く残っていたためか、朝鮮半島諸国から戦乱を避けて渡来してきた人々が多数入植したとある。”続日本紀”によると奈良時代に入り716年に駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7カ国の高麗人1799人を武蔵国に移して高麗郡がおかれ、758年には、新羅からの渡来人僧俗74人を移住させ新羅郡(新座郡)がおかれたとある。
渡来人には、僧尼が多く、寺院や仏像を造って仏教信仰を広めるばかりか、そのもてる先進的な知識や技術で地域の開発に大きく寄与したものであろう。

荘園の発展と権門体制:

律令制に基づく支配の維持が困難になった朝廷は10世紀初め戸籍・計帳による支配や班田制を放棄し、一定の耕地の経営と納税を有力農民に請け負わせる負名制(ふみょうせい)に移行した。
11世紀前半になると、国衙領の荒廃の進行に対応するため、朝廷は開発を条件に公田の領有と国衙領内部の開発所領としての荘園形成を認める政策に転換せざる得なくなった。

開発所領の寄進などを通じて摂関家さらに有力寺社や天皇家までもが大荘園領主として11世紀末から12世紀に現われてきた。11世紀中頃から末法の時代に入るという考え方や戦乱や内裏や京中に火災が相次ぐなど、政治的社会不安が増大するなかで、寺社の教えに救済を求める風潮が強くなった。救済のため競うように造寺造仏や阿弥陀堂の建築のため多くの荘園が寺社に寄進された。人々を救済するという特権と大規模な荘園群を獲得した有力寺社は大きな権力と僧兵や神人などの武力をもち政治にまで介入するようになった。

摂関家・院・有力寺社が荘園領主として並立し、武家は源氏・平氏を中心に中央政権で武門としての位置を確立しつつあった。独自の権力と財政基盤をもった集団が並び立ち政務を分担する体制(権門体制)が作られてきた。

この体制はどれかの権門が単独で権力を掌握し国家支配を遂行するのではなく、公家が政務・朝廷儀礼を、武家が軍事・警察を、寺社が宗教と国家的イデオロギーを分掌して天皇と朝廷の太政官機構で国家負担の徴収や、官位の任免・年号制定など国家支配体制が確立してきた。中世を特徴づけるのは武士や大寺社などばかりでなく、民衆(荘民や百姓)が自立した運動(一味・一揆)を展開して、中世的村落を形成するのもこの時期であった。


参考文献: 鎮護国家の大伽藍・武蔵国分寺   著者:福田信夫 新泉社
      中世社会の成り立ち 吉川弘文館  著者:木村茂光
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荘園の発展と権門体制
律令制に基づく支配の維持が困難になった朝廷は10世紀初め戸籍・計帳による支配や班田制を放棄し、一定の耕地の経営と納税を有力農民に請け負わせる負名制(ふみょうせい)に移行した。11世紀前半になると、国衙領の荒廃の進行に対応するため、朝廷は開発を条件に公田の領有と国衙領内部の開発所領としての荘園形成を認める政策に転換せざる得なくなった。開発所領の寄進などを通じて摂関家さらに有力寺社や天皇家までもが大荘園領主として11世紀末から12世紀に現われてきた。11世紀中頃から末法の時代に入るという考え方や戦乱や内裏や京中の火災が相次ぐなど、政治的社会不安が増大するなかで、寺社の教えに救済を求める風潮が強くなった。救済のため競うように造寺造仏や阿弥陀堂の建築のため多くの荘園が寺社に寄進された。人々を救済するという特権と大規模な荘園群を獲得した有力寺社は大きな権力と僧兵や神人などの武力をもち政治にまで介入するようになった。摂関家・院・有力寺社が荘園領主として並立し、武家は源氏・平氏を中心に中央政権で武門としての位置を確立しつつあった。独自の権力と財政基盤をもった集団が並び立ち政務を分担する体制(権門体制)が作られてきた。
この体制はどれかの権門が単独で権力を掌握し国家支配を遂行するのではなく、公家が政務・朝廷儀礼を、武家が軍事・警察を、寺社が宗教と国家的イデオロギーを分掌して天皇と朝廷の太政官機構で国家負担の徴収や、官位の任免・年号制定など国家支配体制が確立してきた。中世を特徴づけるのは武士や大寺社などばかりでなく、民衆(荘民や百姓)が自立した運動(一味・一揆)を展開して、中世的村落を形成するのもこの時期であった。