職業人としての武士

10世紀中ごろの平将門と藤原純友の反乱(承平じょうへい・天慶てんぎょうの乱935年〜41年)が武士の政治の表舞台への登場の時期と考えられる。その反乱は国衙(こくが)を舞台とすることが多く、国衙を襲ったり、国司と対立したりしているが、

将門の行動の初期の目的は地域の豪族と国司の紛争の調停という性格が強く、反乱という側面からだけ評価することはできないこと。反乱自体が律令体制の枠内で行われており、律令制下の地方支配をめぐる下級貴族間の抗争という側面を色濃く残しているといわざるを得ないのである。

すなわち将門は桓武天皇の子孫であり、将門の父良持が東北地方の蝦夷(えみし)や俘囚の反乱を抑えることを職務とした鎮守府将軍であったことが示すように東国の抵抗を鎮圧すべく中央から派遣された治安・軍事担当の貴族でかれらは軍事の専門家集団であった。

武士の発達についてはいままでは土豪や有力百姓が自分の所領や権益を守るため武装し、武士になっていったと言われてきたが、自衛のための武力と武士の武力を同一視することは間違いである。

中世にかかれた書に一人前の百姓の資格として”腰刀”を所持し身を守る=自衛する能力が不可欠であったとあるが、武士のもつ太刀や弓とを同じ武力であると評価することはできない。

武士の武士たる所以は馬術と弓術とを中心とした合戦の技術であったから、日頃から騎射の訓練が重要視された。したがって、いろいろな職業人の中でも武者=武士とは弓馬の術を専門とする治安・軍事技術者である。中世の武士の館には厩舎と馬場が付随するのが常で、そこで日常的な訓練が行われていた。

ここに記された武者には在地領主としての性格はまったくない。

武士がなによりも職業戦士であったすると、職業人としての自らの地位を守るため、その技術の独占と伝承が不可欠であった。もちろん技術は一人の人間によって開発維持されることは不可能であるから、そこに集団性が必要になってくる。

その一番身近な集団がイエであった。

武士が武士として存続していくためには、職業戦士を家業とするイエの成立が不可欠であったのである。職業訓練校のない少し前の時代の職人の世界はまさに家業によってなりたっていた。

武士の存在が明確になる10世紀後半から11世紀は武力の実力がものをいう時代になりつつあったが彼らの所領や権益を守るためには、朝廷や国衙の認定が不可欠であり武力だけでは所領や権益を確保し維持することはできなかった。そのため、軍事貴族という機能をもって国衙の役人となり軍事の専門家として職能を発揮し、権益の確保を実現したものが”武士”である。

11世紀前半、当時有名な文人貴族の藤原明ひらの著書”新猿楽記”に猿楽を見に来た一家の25名の人々の職業の説明のなかに”田堵(たと):現地で荘園の経営に携わっている者””相撲人””馬借・車借””博打””陰陽の先生””炭売りの翁””天台宗の僧””商人””大仏師”などにまじって”武者”が書かれている。11世紀(平安時代)には軍事の専門家・職人としての武者が確立していた。

武という技術によって他の職業人から自らを区別した武士は武芸を家業とする特定の家柄の出身者でなければならなかった。

鎌倉・室町時代、御家人は将軍と主従関係を結んだ武士を意味し、そうでない武士=非御家人とは厳密に区別されていた。

御家人とは昔から開発領主として根本私領を持ち、それを幕府の御下文で本領として認定された武士のことであり、

非御家人とは侍ではあるが御家人役を勤仕する所領を持っていない、すなわち幕府から本領の認定を受けていない者を意味していた。

もとへ。