ブルボン朝による絶対君主制の支配 (アンシャン・レジーム)

18世紀のヨーロッパ各国では、自然権や平等、社会契約説、人民主権論など理性による人間の解放を唱える啓蒙思想が広まっていた。責任内閣制を成立させ産業革命が起こりつつあったイギリス、自由平等を掲げ独立を達成したアメリカ合衆国は、他国に先駆けて近代国家への道を歩んでいた。

しかしフランスでは18世紀後半に至っても君主主権が唱えられ、ブルボン朝による絶対君主制の支配(アンシャン・レジーム)が続いていた。アンシャン・レジーム下では、国民は三つの身分に分けられいた。

第一身分である聖職者が14万人、
第二身分である貴族が40万人、
第三身分である平民が2600万人、

第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていた。

1780年代、フランスでは45億リーブルにもおよぶ財政赤字が大きな問題になっていた。赤字が膨らんだ主な原因は、ルイ14世時代以来続いた対外戦争の出費と宮廷の浪費、ルイ15世時代の財務総監ジョン・ローの開発バブル崩壊など、先代、先々代からの累積債務がかさんでいたことで、それに加えて新王ルイ16世が後述の財政改革の途中にアメリカ独立戦争への援助などを行い、放漫財政を踏襲したことで破産に近づいていた。政治的な混乱と前年の不作の影響でパリの物価も高騰しはじめていた。

ブルボン朝政府、特に国王ルイ16世は当時の社会体制(アンシャン・レジーム)に対する鬱積した反発を緩和するために漸進的な改革を目指したが、特権階級と国民との差を埋めることはできなかった。

1789年7月14日のバスティーユ襲撃を契機としてフランス全土に騒乱(市民革命すなわちフランス革命)が発生し、国王は1788年7月に全国三部会の開催を約束した。翌1789年に各地で選挙が行われて議員が選出され、5月5日、ヴェルサイユで開会式が行われた。国王は三部会を主導しての問題解決を目論んでいた。しかし税の不平等負担への第三身分の鬱積はすでに頂点に達しており、複雑化・多様化した国内事情ゆえ、従来の身分制では問題を解決できなかった。
三部会が始まるとすぐに議決方法で議論が紛糾した。議決方法をめぐる討議は40日間も堂々巡りを続けた。

議論が進まない事に愛想をつかした第三身分の代表達は、三部会に見切りをつけ、自分達だけの議会「国民議会」を発足させる。そしてヴェルサイユ宮殿の室内球戯場に集り、憲法を制定する事と国王が国民議会を正式な議会と認めるまで解散しない事を誓った(球戯場の誓い・テニスコートの誓い)。ただし、ミラボーや一部の議員の中には、国王の承認なしに議会をフランスの代表とする事に懸念を示す者もいた。

第三身分(平民)による国民議会(憲法制定国民議会)が発足、第一身分、第二身分代表の中にもアンシャン・レジームに無理がある事を理解している者がおり、そうした者たちも国民議会に参加した。

国民議会との軋轢を避けたいルイ16世は、国民議会を正式な議会として承認し、王の説得により他の第一身分・第二身分の議員も合流した。承認を得た国民議会は憲法制定国民議会と改称して憲法制定に着手する。内心では議会を承服しかねるルイ16世ではあったが、事態を収拾し改革の芽を残すには止むを得ない手段であった。

しかし特権貴族や王族はこれに反対し、第三身分に圧力をかけるため、軍隊をヴェルサイユとパリに集結させる事を国王に強要した。国王政府の軍隊集結によって緊張が高まるなか、7月11日に国民に人気のあったネッケル(ルイ16世は次に銀行家ネッケルを財務長官に任命した。ネッケルは反対の大きい税制改革よりも構造改革によるリストラと募債によって財務の改善をめざしたが、失敗して赤字幅を逆に増やし、続いて免税特権の廃止によって税務の改善を図ったが、特権身分の反対にあってやはり挫折した。)が罷免された。

これに怒った民衆は、1789年7月14日、当時は火薬庫であったバスティーユ牢獄を襲撃した。パリでの事件が伝えられると争乱はフランス全国に飛び火し、暴動を起こした農民達が貴族や領主の館を襲って借金の証文を焼き捨てるという事件が各地で発生した。

1789年8月4日に国民議会は封建的特権の廃止を宣言し、8月26日に人権宣言を採択した。この時点ではまだ国王が主権者であったので、法律の制定には国王の承認が必要であった。しかしルイ16世は、民衆が主導する法令を拒絶し、これらの宣言を承認しなかった。
10月5日、パリの数千の女性達が武器を持って雨の中パリ市役所前の広場に集まり、ヴェルサイユ宮殿に乱入、国王と議会に食糧を要求する。一部は暴徒と化したため、ルイ16世はこの圧力により人権宣言を承認し、彼女等に連れられてパリのテュイルリー宮殿に家族と共に移り住む。これ以降、ルイ16世一家はパリ市民に監視されて暮らすことになる。

革命の進展とともに封建的諸特権は撤廃され、王政と封建制度は崩壊した。

1790年この時期の革命は、穏健なミラボー、ラファイエットら立憲君主制派によって指導されていた。市民軍は総司令官に自由主義貴族のラファイエットを任命し彼の提案により三色旗(現在のフランスの国旗)が革命の旗となった。革命勃発により、貴族や聖職者など特権階級の多くが国外へ亡命を始めていた。

1791年、国王と民衆との仲介者であったミラボーが死ぬと、過激化する革命を嫌ったルイ16世は、マリー・アントワネットの愛人であるスウェーデン貴族フェルセンの助けを借り、王妃の実家であるオーストリアへ逃亡しようと企てた。
6月20日、ルイ16世一家はパリを脱出するが、国境の手前のヴァレンヌで国民に見つかり、6月25日にパリへ連れ戻される。この事件はフランス国民に衝撃を与え、同時にルイ16世の反革命思考が暴露される。

革命の波及を恐れるオーストリアとプロイセンとがピルニッツ宣言を発表し(8月27日)、ルイ16世の地位を保証しないと戦争をしかけると脅したので、ルイ16世は国王に留まることとなった。

しかし、それまでは比較的多数を占めていた国王擁護の国民からの支持を失う。

1791年9月、正式に憲法が制定された(1791年憲法)。
この憲法は君主制のもとで、平民であっても一定以上の税金を納めたものには選挙権を認めた。

10月になると最初の選挙が行われ、新しい議会「立法議会」が成立した。
立法議会では、立憲君主制を守ろうとする穏健勢力のフイヤン派と、国王の存在しない共和制を主張するジロンド派の2派が力を持った。ジロンド派は裕福な商工業者をはじめとした上層・中層の市民(ブルジョワジー)を支持層としていた。

1792年8月27日オーストリアとプロイセンとがピルニッツ宣言を発表や王党派亡命貴族(エミグレ:移民という意味)による扇動活動は、革命政府に対する重大な脅迫であると受け止められた。
ジロンド派内閣は革命維持のためオーストリアに対して宣戦布告し対外戦争に踏み切る。
1792年9月21日、国民公会は、王政廃止とフランス第一共和政の樹立を宣言した。
共和政府はルイ16世を革命裁判かけルイ16世の死刑を議決し1793年1月21日、ルイ16世はパリの革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンによって処刑されました。10月にマリー・アントワネットも処刑された。ルイ16世の処刑はヨーロッパ各国を震撼させ、イギリス、スペイン、サルデーニャ王国なども反革命に立たせることになった。王党派と結びついて拡大した。テロリズムも続発し、国内情勢は不安定になっていた。

これらの危機に加えて、ジロンド派が下層市民の食糧危機に対して何ら政策を講じない事を宣言すると、下層市民の怒りが爆発する。6月2日、下層市民の支持するジャコバン派が国民公会からジロンド派を追放しロベスピエールが権力を掌握した。

ジャコバン派は独裁政治を開始する。
公安委員会・保安委員会・革命裁判所などの機関を通して恐怖政治を実行し、反対派を次々とギロチン台に送った。ギロチンの嵐、ヴァンデの反乱を始めとする内乱、ジャコバン派による恐怖政治、さらにロベスピエールは、エベール派とダントン派を粛清して、農民に対する土地の無償分配など自己の理想とする独立小生産者による共和制の樹立を目指した。フランス本土では恐怖政治が進んだ。

参政権を得た下層市民、無償で土地を得て保守化した農民、さらにはインフレによる生活圧迫や恐怖政治によって自らの生命をも脅かされていた反ロベスピエール派は、密かにその打倒を計画する。

繰り返されるクーデター、そしてそれに伴う大量殺戮などによって混乱を極めた。

革命は1794年のテルミドールのクーデターによるジャコバン派の粛清によって過激な革命運動は沈静化し、ブルジョアジー勢力が復権する。

1795年10月26日、国民公会が解散されて総裁政府が成立。

革命によって生まれたフランス第一共和政は、ナポレオンによるフランス第一帝政の開始によって10年余りの短命に終わった。

ナポレオン・ボナパルトによる1799年11月9日のブリュメール18日のクーデターで終焉したとする1799年、ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが執政政府を樹立し独裁権を掌握した。。

フランス革命が掲げた自由、平等、友愛の近代市民主義の諸原理は、その後市民社会や民主主義の土台となった。一方で、理性を絶対視し、理性に基づけばあらゆる社会の改造や暴力も正当化しうるとした点で、その後の共産主義、社会主義、全体主義の母体ともなった。

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出典:ウィキペディア フリー百科事典 (フランス革命 他)