<頼朝の側近大江広元あてに送った義経の腰越状>

 恐れながら申し上げますが、私源義経は、御代官の一に選ばれ、朝敵を滅ぼし、先祖の恥をそそぎ ました。当然、行賞をいただけるはずのものを、意外の讒言によって足止めされ、そのうえ、何の罪 も犯さないのにお叱りを受けるだけで、功績はあっても罪はない身に、御勘気をうけるのはあまりにも情けなく、むなしく涙をのんで います。

 讒言の正否をただすこともなく、鎌倉へも入れられず、私の気持ちを述べることもかなわず、数日をむなしく過ごしました。お会いしたいと思ってもできないのは、義経の運がつたないのか、前世の因果によってきたるところか、まことに残念の至りに思います。

ここに、再び申し開きの状を書くのは、何か感傷的でありますが、義経が生まれていくばくもなく 故頭殿(源義朝)は御他界になり、孤児となって、母の懐中に抱かれ、大和国宇陀郡竜門に身を潜めて以来というもの、一日とて安らかな思いなく、かいもない命をながらえていた次第です。

しかし時を得て、平家一族追討のために上洛し、まず木曽義仲を討ち、更に平家掃滅のため、ある時は岩山を駿馬にむちうち、命をかえりみず駆回りました。ある時は、洋々たる大海に波風をしのぎ、身を海底に沈めることもいとわず奮戦しました。すべて亡父義朝の悲しみをしずめ、源氏再興の宿願を達したいためにほかならず、義経個人の野心など、つゆばかりもありません。

それにもかかわらず、かように深く御勘気をうけては、この義経の心をどのように、お伝えして解っていただけるのか、神仏の加護に頼るほか道はないように思われ、数度にわたって起請文を差し上げましたが、いまだにお許しがないありさま、せめてここに貴殿の御慈悲を仰ぎ、義経の意中を頼朝殿にお知らせいただき、疑い晴れて許されたならば、永く栄華を子孫に伝え、平安と幸福を得たいと念願している次第です。

元暦二年六月五日   源義経

進上  因幡前司守 殿 (大江広元)


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