飛鳥から平城京へ。
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古代の人々にとっての 飛鳥 とは、現在より狭い地域を指すものでした。
北に大和三山の一つの香具山、南に神奈備山(かんなびやま)、西に甘樫丘(あまかしのおか)にかこまれた中央を南北に飛鳥川がながれる、南北三キロメートル、東西七キロメートルの小さな盆地を飛鳥と呼んだようです。
飛鳥の地は、海の門戸である難波から大和川支流の飛鳥川や横大路といった水陸の要路が通じ文物の集積地となっていました。
紀元前一万年から紀元前4世紀は縄文時代といわれ狩猟、採集による生活が主だったが、仏教の伝来以前のこの時代の我が国の宗教は呪物崇拝 (じゅぶつすうはい)といわれ天地の神々だけでなく、それらを祀る神社の御霊もまた、鳥や獣、草木や海山など自然界までも神と考えられていました。
紀元前400年から紀元300年ころまでは弥生時代といわれ狩猟、採集をした生産手段から、稲作に転換した時期で農耕による定住化がすすみ、作物の豊作凶作を左右する自然をますます神格化するようになりました。稲作に関する農耕儀礼は豊作祈念の春の祭りと収穫を感謝する秋の祭りが中心で行われました。農耕儀礼中心の原始神道の誕生となりました。
3世紀末には稲作の収量が増え各地の豪族が力をもつようになり、競って古墳を築くようになりました。5世紀に前世紀を迎えると大和政権が北海道・東北・沖縄を除く日本の統一をはたすようになりました。ヤマト建国といっても大王(天皇の称号は7世紀にはいってから)1人の手に絶大な権力が集中したものでなく、4世紀になると地方の首長層へ鏡、碧玉、宝器がヤマトから分配され臣従関係が確立されていったようです。それらの国家を支えるため律令国家という新しい国造りが進められました。
5世紀に入ると朝鮮半島で北方騎馬民族の高句麗の南下で新羅、百済、伽耶の3国を圧迫しだしたため、倭国王は積極的に朝鮮半島に軍事介入し、多くの亡命者を受け入れ先進文明が浸透してきました。
仏教伝来前の神道は習俗として祀ってはいるが教義や戒律があるわけではなく、宗祖がいるわけではありませんでした。
日本に仏教が公に伝来したのは、朝鮮半島百済の聖明王によって、仏像と経論がもたらされたことに始まるといわれます。日本書紀によれば五五二(29代欽明天皇十三)年といわれています。
百済からの仏像と経論は中国から百済、高句麗、新羅という朝鮮三国に移植された仏教文化が、当時欽明天皇が住んでいた神の住まう三輪山の麓にある磯城宮(しきのみや)ではなく、そこから数キロメートル以上南に離れた飛鳥にもたらされたとのことです。当時の飛鳥は蘇我氏など渡来人系の多くが住み着いた、渡来文化の集積地でした。
外来の宗教である仏教を受け入れるにあたり、日本の国神の住む神体山 三輪山の神域周辺を避け選んだのではないかと言われています。
31代用明天皇の第2子である聖徳太子(厩戸皇子 574〜622)が仏教の理念で新国家の基礎をつくろうとしていきました。
587年 太子14歳のとき仏教伝来をめぐり有力豪族による排仏(物部守屋氏)・崇仏(蘇我馬子氏)の乱がありました。
崇仏派の太子と蘇我氏は排仏派の物部氏をやぶり戦勝を仏に祈願して難波に四天王寺を建てました。
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596年仏塔、三金堂(仏塔を3つの金堂が囲む一塔三金堂の特異な伽藍配置が特徴的)、講堂を備えた飛鳥寺という日本最初の伽藍建立が、天皇でなく蘇我馬子の発願により蘇我氏の氏寺として建立され、 飛鳥大仏 とよばれるわが国初の大仏は蘇我勢力と天皇家(推古天皇)の結びつきにより、仏法の儀礼をともなう権威の象徴として造立されました。
仏教の伝来の意義。
日本へ朝鮮半島を通してはいってきた情報は仏教教義だけでなく、仏像の制作方法やその祀り方、寺院の伽藍配置や礎石の据え方、瓦の作り方・葺き方、礎石立・瓦葺(かわらぶき)の重い建物を支える強固な地盤や基壇の築き方など、思想や美術・工芸・土木建築など様々な分野に関するものでした。
20歳(594年ころ)から推古天皇の摂政として政治を動かしていた聖徳太子は589年隋が中国を統一し中国に隋という超大国が出現したことで、最新知識を得ようと遣隋使(600〜614年まで)を6回公式使節として派遣しました。仏教の師として高句麗の僧 慧慈(えじ)や百済僧また儒教の師として百済人をさらに新羅から秦氏を招くなど中国や朝鮮半島との積極的外交を行いました。607年小野妹子を遣隋使とし国書に 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや・・・」 としたことが隋の皇帝・煬帝の逆鱗にふれ、以後国内でも政治の舞台からとうざかっていったと言われています。
607年法隆寺は聖徳太子が斑鳩宮のそばに建立したと伝えられ、太子死後、鎮魂のため建てられたという説もあります。
法隆寺金堂
(釈迦三尊像、日本最古の木造四天王立像が安置)
夢 殿
大化改新といわれる645年飛鳥板ぶきの宮太極殿で当時蘇我政権の実権をにぎっていた蘇我蝦夷・入鹿を暗殺した中大兄皇子は民(畿内の諸豪族)に不人気であったため親蘇我派の孝徳天皇(叔父の軽皇子)に皇位を譲り自らは皇太子として中臣鎌足と大化の改新をすすめていきました。、半年後新政権が都を難波に遷しています。
ヤマト盆地の南部から西部にかけて葛城山系から生駒山系に難波から攻めのぼってくる敵をふさぐよう陣取って盆地ににらみをきかしていたのは葛城氏、平群氏という蘇我系氏族でした。都を作るとすれば蘇我氏の強固な地盤であるヤマト西南部をさけヤマト盆地、現在の奈良市付近に遷都するのが無難な選択と考えられますが、新政権が難波に遷都したということは奈良盆地からはなれても脅威となる敵がいなくなったということになるようです。
大化の改新から23年後(661年)天智天皇となる中大兄皇子の立場は日本書紀では第34代舒明天皇の東宮(皇太子で次期皇位継承候補)であったとあるが、舒明天皇崩御後天皇の即位されたのは皇后であった中大兄皇子の母の皇極天皇だった。
乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)後、皇極天皇は中大兄皇子に皇位を譲るという詔を出すが、入鹿暗殺の首謀者の中大兄皇子は住んでいた宮がたびたび不審火に見舞われるなど民(畿内の諸豪族)に不人気であったため、忠臣の中臣鎌足の進言にしたがい蘇我氏の遺志をひきつぐと民が認めた親蘇我派の孝徳天皇(叔父の軽皇子)に皇位を譲り自らは皇太子として中臣鎌足と大化の改新をすすめていきました。
乙巳の変(入鹿暗殺)直後に難波遷都したことは中大兄皇子など新政権の意向とは考えにくく、入鹿時代に画定していたことに従ったもので、中大兄皇子の入鹿暗殺は諸豪族の望むところではなかったと考えられます。
662年中臣(藤原)鎌足の死後その妻 鏡女王が山城(京都市)にたてた山階寺にはじまり8世紀初頭の不比等が平城京遷都に際して現在地にうつし、寺号を興福寺とされました。
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