「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」
神道政治連盟国会議員懇談会の席上で行われた森喜朗首相の挨拶の中で、「神の国発言」と呼ばれて問題視されたのはこの部分である。後日の釈明会見等々では、天皇についての認識は、現行憲法に規定されている象徴天皇の事であって、戦前のような神格化された天皇ではないと繰り返した。政治家の語る天皇は、そういう事に決まっているというような、閣僚や自民党幹部のフォローもあった。
法治国家に生きる国民としては、憲法を社会的価値観や倫理、常識の基盤として共有するという事が立前だ。大日本帝国憲法と、現行の日本国憲法を読み比べても、公的機関としての天皇の扱いは、明らかに異なっている。戦前も議会は機能していた等の理由で、国政に果たす天皇の役割は変わっていないと仰有る学者さんもいるようだが、統治者と明言されていたり、神聖にして侵すべからざる存在が、現在の象徴天皇と同様だと言える筈はない。
という訳で、現憲法の条文を見る限り、天皇とは、「主権者である我ら日本国民の総意に基づく、国、及び国民統合の象徴」である。統治者とか、君主とか現人神とか言った記載は無い。
外国人の多くは、天皇を日本の皇帝であると考えているそうだ。我々は習慣的に、日本は議会制民主主義の国家だと考えているが、傍目から見れば、我が国は立憲君主制の国家である。数年前、冬季五輪開会式での今上天皇の映像には、直訳すれば「皇帝陛下」となる英語の字幕が付いていた。しかし、我々は「天皇は皇帝である」と言われても、何やらしっくりこない。
我々日本人の多くは、実は天皇や天皇制について良く知らない。知らない、と言うよりも、意図的に曖昧なまま放置しているような気がする。
『天皇』、或いは『天皇制』という言葉に懐くイメージは、世代間という区別を抜きにしても一様ではないだろう。戦後体制における象徴天皇は勿論、『皇室ファミリー』という言葉に代表される女性週刊誌的な天皇家。また、大元帥陛下、御真影、現人神など、天皇陛下万歳という言葉を連想させる神国日本の暗い記憶、そして古事記や日本書紀に描かれる超人的存在としての神話的天皇や、『源氏物語』のような中世の皇族……そうした物が渾然一体となって、何となく『天皇』というイメージを造り出している筈だ。それぞれの要素の占める割合が、個々人の天皇観の違いとなる訳だが、そうした一切合切をつぶさに検討しなければ、天皇や天皇制の本質は見えて来ないであろう。
放送や出版といった形態を問わず、天皇や天皇制についての議論を深い所で行おうとする事に、メディアは及び腰になる傾向がある。「神の国発言」の問題が、結局曖昧なまま尻窄みに終わったのも、この辺りに原因があるだろう。それが畏れ多い事だからなのか、右や左の過激な人達との摩擦を怖れるからなのか、理由は様々あるのだろうが、未だに『天皇』という概念が、ある種の禁忌の対象となっている事は確かなようだ。
最近、朝日新聞に短期連載された、『!神の国 人の国』の第二回目で、文芸評論家・糸圭秀実氏は、象徴天皇こそ『神』のような存在であると言っている。戸籍を持たず、日本国民でもない他者が国家や国民の象徴となっているという事……人類は古来から、こうした存在を『神』と呼んで来たのではないか、と……
象徴だの偶像だのという存在や概念は、本来呪術的なものである。かつて保守系論客、西部邁氏は、天皇は単なる皇帝ではなく、祭司皇帝であるという表現をした事があるが、神事としての皇室行事や神道との繋がりを抜きにしても、天皇や天皇制は、明らかに呪術的な要素を内包している。その本質を議論する事への曖昧な放置、禁忌という物も、我々日本人の前近代性と言えるのかも知れない。
また、禁忌の為ばかりではないだろうが、戦後生まれの日本人は、建国神話や天皇制の起源というものにも疎いように思われる。私は、自分の作品の構成要素として、水蛭子の話や天孫降臨の話をちょくちょく使うのだが、日本神話その物を全く知らないという若い俳優も少なくない。
日本神話を知らない若い世代の増加は、『神の国』を肯定する人々の、情操教育として宗教教育を導入しようとする事の動きと、批判する側の議論が尽くされず、曖昧なまま放置された結果なのかも知れない。
私は道徳の背景として日本神話を教育すれば、一神教国家が神の権威を倫理の背景とするように、天皇制の神話的部分を素通りする事は出来ないと思っている。それは、取りも直さず「国民の総意に基づく象徴天皇」というつい数十年前に発明された概念から、限りなく離れて行く事を意味する。これらの欺瞞が放置され続けた裏に、「触らぬ神に祟り無し」という発想があるのだとすれば、日本はやっぱり呪術国家だったという事になる。
2000.9.14(『テアトロ』2000年十一月号)