《36》自分の劇団しか知らないと云う不幸
『邪教の館』へようこそ。
最近、何故か良く聞くようになった言葉に、こんな類の物がある。
曰く、
「演劇の業界は狭い。もしも、私と貴方が、この先も演劇を続けていくのであれば、必ず私と貴方はいつかまた出会う」
本当だろうか?
演劇の業界は狭いというが、それは本当だろうか? 全国には、三千から五千と云われる程の劇団があるという事だが、私達は、そのうちの幾つの劇団の名前を挙げる事が出来るだろうか? 或いは、劇作家協会に加盟する五百人程の劇作家、そのうち何人の名前を挙げる事が出来るだろうか? 演劇に携わっている人……それは、ただ、演劇をやっているというその事実だけで、等価であるのだろうか?
こと、演劇に限って云えば、プロとアマチュアの差はとてつもなく曖昧だ。その判断基準は難しい。「演劇のみで生計をたてている人のみをプロの演劇人として認める」そのような基準を引く事が出来るだろうか? そのような線引きをすれば、プロのボクサーだと言える日本人ボクサーは、世界チャンピオンだけだという話になってしまう。劇作だけで生活している劇作家というのは何人いるのだろうか? 或いは、舞台の出演料だけで生活していける舞台俳優とはどれだけいるのだろうか?
『演劇界』或いは『演劇業界』という言葉の曖昧さは、おそらくこの辺りに起因している。再三言い続けた事だが、おそらく演劇は誰にでも出来る。それは、誰だって料理が出来るし、誰にでも歌を唄う事が出来るという次元と全く同じ意味合いでの事だ。歌を歌い続けたらパバロッティーやミック・ジャガーといつか出会う事が出来るだろうか? そういう事もあるかも知れない。だが、その人の歌う場所がカラオケボックスや歌唱サークルの集う音楽室なら、マリア・カラスやシャルロット・チャーチやビョークと会えたりする訳がない。それぐらいの事は誰だって弁えている。格闘技を続けていれば、誰だってヒクソン・グレイシーやアーネスト・ホーストと闘えるという訳ではない。
最近、演劇人が集まる諸々のイベントに顔を出すと、「やあ、また会いましたね」と云いたくなるような、同じ顔ぶれと会う事が多くはなっている。「ああ、また……」としばしば思うという事が、それだけで業界の狭さを示しているとは云えないだろう。むしろ、私は狭い人脈の中でしかお付き合いをしていないのだろうと思うだけだ。要するに、演劇人の数は膨大だが、その演劇界全体には無数の小さなセクトがあって、そのセクトの中でだけ人の交流や交換があると考えるのが自然なのだろうと思う。セクトの狭さと業界の狭さはイコールではない。業界の広さを感じる為にはセクトを突破しなければならない訳だが、突破自体が誰にでも出来る事ではないので、突破した人は突破した人達同士で顔を合わせる機会が増え、結局は別のセクトを縦断しているだけのような付き合い方になる。
おそらく、『劇団』とは、演劇界のセクトの中での最小単位の一つだ。自分の劇団の中で活動や付き合いを収束させてしまえば、それこそ業界も世間も狭い物になるだろう。元々、劇団は劇団という単独の組織で演劇を遂行する事を目的とするから、ただ、組織に乗っかっているだけの人にとっては、劇団の外に出て行く理由は全く無い事になる。そういう人達同士は、最小のセクトである劇団の中で完結してしまうから、いくら演劇を続けた所で、他の劇団、他のセクトに属する人と永遠に交わる事は無い。
特定の個人が劇団に所属するという関係のあり方は、会社に所属する事によって会社に庇護されるという関係と似ている。組織が個人を庇護し、かつ束縛するという関係のあり方が崩れかかってきた事と、多くの人が、その関係のあり方を突破出来ないという二つの事は、リストラされた中高年男性の鬱病や自殺という現象として現れている。一般社会は、個人が個人に価値を見いだそうとする方向にシフトチェンジを始めている。演劇界だけがそのような流れから無縁でいられる筈は無く、劇団の名前だけをブランドとしている劇団は、劇界の牽引車としての役割を全く果たせなくなって来ている。つまり、旧来あったような『劇団』、或いは大劇団は既にその役割を終えてしまっているのだという事が判る。実際に、演劇の新しいスタイルやベクトルを提示するのは、個人に率いられた小さな小回りの利く集団だ。小さな集団に帰属する事は、ある意味で更に狭い世界を選択する事なのだが、大手の劇団に所属するよりも、遙かに自分達のやる事に対して批評的かつ客観的な視点を獲得している。これは何故だろうか?
特定の劇作家や演出家に率いられた集団は、より目的集団としての色彩が強くなる。つまり、表現のベクトルが、よりダイレクトに批評に晒されやすいという事なのだと思う。評価や評論のあり方がダイレクトなので、当然、外の世界に対する意識も鋭敏な物にならざるを得ない。小集団のベクトルは、集団の構成員、全体のモチベーションや成果が評価の対象となり、大手の劇団の場合は、複数のレパートリー選択肢の中の一つとして緩やかな変化としてしか、評者達には認められない。小集団の成果は、その後の集団の評価を決定的とするが、大劇団の舞台成果は、単にその作品が評価されたというだけで終わってしまう事が多い。そりゃあそうだろう。大劇団の中には、劇団内セクトのような物もあって、劇団の成果を全ての劇団員が共有出来ないからだ。成果とは、評価の事だけではない。創作による経験値その物も成果だ。
ああ、何か、書かなくても分かり切っている事ばかり書いているような気がする。これも何もかも馬鹿のせいだ。鬱陶しいので書いてしまおう。
日記にも書いた事だが、「紅王国を観る為には、劇団代表にだか、事務所の社長だかにお伺いをたてて、許可が下りないと観られない」等というくだらなすぎて反吐が出るような事をやり始めた劇団だか事務所が出現したらしい。もの凄く馬鹿だ。そして、それらの事務所や劇団に関連している養成所では、養成所外の教室やらワークショップに参加するのも認可制だかなんかなんだそうで、そうした別の場所で学ぶには、授業料だか何だかの何%だかを、その養成所にバックマージンとして収めなければならないんだと。そして、その対象になっているワークショップには、紅王国のワークショップも入っているんだと……アホかよ、全く……
まあ、全て伝聞なので、本当の事は判らないが、生徒だか所属タレントが、佐々木勉だの、鈴木淳だののように、劇団や事務所を辞めて紅王国の劇団員になってしまったり、常連俳優になってしまったりするのに歯止めをかけたいのが動機なのではないかと云われている。悪いけど、そんな事は私の知った事ではない。連中が紅に入りたいと思ったり、出演したいと考えるのは彼らの勝手なのだし、別に、出たいとか入りたいという人間を無制限に受け容れるつもりもない。第一、そのうち、燐光群や青年団を観た所属俳優が、「辞めて坂手さんの劇団に行きたいんです」と云いだしたりしたら、どうするつもりなのだろう? やっぱり、その先、「THE・ガジラは観るな」とか、「NODA・MAPを見に行く前に許可をとれ」とか、そういう事を言い始めるのだろうか? ついでに、養成所外のワークショップのバックマージン云々というのは、単に金の為だと話の出所の人達は云っていたが、もしもそれが本当なら、そういう養成所から、紅王国に何らかの話がなければおかしい。そういう事が直接聞こえてこないという事は事実ではないのかも知れないし、多少の尾鰭は付いているのだろうとは思う。しかし、それにしたって火の無い所に煙は立たない。対象になっているワークショップには佐々木勉がフライングステージの野口聖員や鈴木淳(要するにWild Bellの二人)と中心になってやっている『S2K』というのも入っていて、「『S2K』は紅王国の新人を育てる為のワークショップだ」という根も葉もない事実無根の出鱈目を、その劇団代表だか事務所の社長だか、養成所の主任講師だかにたれ込んだ馬鹿までが居るらしい。
ちなみに、『S2K』というのは、前述した三人が中心になってやっている、筋トレだか、アクションだか格闘技だかのワークショップである。あたしはそういう事には一切関心がないので、まあやりたい人は勝手にやって下さいという事で放置している集いである。はっきり云って、一回も参加した事もなければ見学した事もない。そんなモンが何で紅王国の新人を育てる為のワークショップという事になってしまうのか理解に苦しむ訳だが、そういう事まで云って媚を売りたい馬鹿が居るという事なのだろう。セクトを守ってセクトの中で地位を高める為に媚を売るというのは、崩壊しかけている組織への帰属というシステムに殉じようとしているのだから、まあ勝手に滅んで行って貰うしかない。媚を売る人間が周りに集まるという事は、指導者が媚を売って欲しいという電波を発射しているという事なので、これもまた自業自得と言えなくはないのだが、せめて我々とは無関係な所でやって下さいとお願いしたい物である。
外の世界を観るなと云う事は、学ぶなという事に等しいのだし、そんな事に諾々と従っているような学ぶ気のない馬鹿を相手にするつもりは端っから無い。どうぞ御安心下さいとしか云いようがない。ついでに云えば、構成員をセクトの中に閉じこめようとしたって、突破しようとする奴は必ずそうした障害を突破する。障害を目に見える形で作れば、尚更突破の欲求は高まるだろう。そういう事が判らないと云うのも、また馬鹿だからというのが真相だという事になるだろうから、これ以上馬鹿の相手をしていれば、こっちも馬鹿になってしまうだけだ。最後に忠告をしておくなら、「演劇をやりたい人間が、演劇を遂行しようとしている場に流出する事は避けようがない」という事だ。人をつなぎ止めて置きたければ、もっと真摯に演劇をやりなさいと云うしかない。少なくとも、公演の招待席が、演劇関係者ではなく、アニメやゲームの関係者で埋まっているうちはどうしたってダメだよ。そんなのは「我々声優は趣味で舞台をやっています」と喧伝しているような物だ。趣味でなく演劇をやりたい人間は、どんどん演劇の側に脱北していくだけである。
(ちなみに紅王国では、気に入らない事務所や劇団を辞めて、紅王国に入ったり、稽古に参加したりする人達の事を『脱北者』などと呼んでいる。彼らが元々所属していた劇団や事務所では、指導者が外の世界の情報を遮断したりして鎖国状態を維持したりしていたので、何故か、北朝鮮と似ているのだ。さしずめ、「紅王国を見るな」というのは、米帝や日本の堕落文化に触れるという事になるのだろうな……)
……とまあ、私憤を書き連ねて来たような気もするが、件の劇団と関係を持っていた頃、私は演劇人と関係を持っているのだという実感を、とうとう最後まで持てなかった。それは、新劇の人達とも、テント系小劇場の人達とも、また寺山修司の遺伝子を汲む人達とも明らかに異なった質感だった。強いて云えば、商業演劇に通ずる何かがあったような気がするが、演劇に関するロジカルな面での無知と無自覚が決定的で、要するに真面目に演劇をやろうとしているとは最後まで思えなかったのである。結局、それは彼らが『声優劇団』というセクトを突破する視野を持てなかったという事に起因していたと考えている。彼らはセクトに閉じこもっていたし、いわゆる『演劇業界』の側は、彼らを演劇人として認知していなかったのだ。私がその劇団に最初に書き下ろした作品は岸田戯曲賞候補となったが、そのこと自体が注目される事もまるでなかった。要するに、演劇界から、世界の外の事としか見られていなかったからだ。演劇の世界に何らかの足跡を残そうという野望を持つのなら、そうした劇団に作品を書く事にメリットは無い。
最初の方の話題に戻るが、演劇人のプロとアマチュアの境目が何処にあるのかという問題の答は、要するに、「演劇界の人間に、演劇人として認められるか」という事に帰結して行くのでは無いかと最近は思えてきた。昔は、限られた俳優養成所……具体的には『俳優座養成所』か『舞台芸術学院』……の何れかを卒業して、何処かの劇団に所属する以外に、演劇をやる事は出来なかった。世間はそれだけでその人を俳優であるとか、演劇人であると認めた。今は違う。無数のカルチャースクールのような俳優養成所があって、猫も杓子も劇団を作る事が出来る。大手の劇団に入っただけでは、世間の人達は「演劇人」だとは認めてくれない。ただの劇団の新人以外の何者でもない。たとえ、その劇団でそこそこの地位に上り詰めた所で、単に「劇団の中の偉い先輩」になるだけだ。私は、そういう劇団の中でしか権力を振るえずに、一般演劇界で何の尊敬も得られない人を何人も知っている。
結局、広く演劇界で「演劇人」だと認められる為には、ある程度の突破の意志と行動が伴っていなければ駄目なのだろう。それは劇団の中だけで完結する関係、要するに、共同体的な温床とは異なった緊張度に耐えられるかという事が問われて行く事になる。例えば、私にとって、劇作家協会を通じて、他の劇作家と持つ関係は、劇団を統率する事とは全くベクトルの異なった緊張を強いる物だ。劇団、即ち俳優と関係を持つ事は、多分に生理的な感覚を触発する事を要求するが、劇作家同士の関係は遙かに知識と思考のスキルを必要とする。そして、劇団の方向性とは異なる、演劇全体を俯瞰した視野も必要とされる。そうした、ある種のセクトを突破したような演劇とのアクセス・ポイントを複数持つ事は、自分自身の演劇界におけるスタンスを自覚的にさせるし、目標値自体を高く設定して行く事にも繋がる。
状況やセクトを突破した演劇人の視野にはいる為には、結局は自分自身も状況やセクトを突破しなければならない。そして、突破を達成した演劇人の数……要するにプロの演劇人という存在の数はまた限られるという事になるのかも知れない。だとすれば、「この業界は狭い」という言は正しいという事になるが、突破した状況で演劇を続けるという事こそ至難であろうとも思われる。
演劇を続けていけば、また出会える……それは正しいかも知れないが、如何様に続けるかについて、どれだけ自覚的になれるかという事なのだろう。
2003/06/21
→邪教の館topへ戻る →紅王国HPトップへ戻る