地下室の小さな水槽に人魚が棲んでいる
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地下室の小さな水槽に人魚が棲んでいる
<前略>

「グレーテル !」
 あふれた光。
扉を開け放って初めに見えたもの、それは光だった。まばゆいばかりに照らし出される世界、ホライズン。そら色のシロップ。
暖かい……。
グレーテルはそう思った。
いやむしろ熱いのかもしれない。グレーテルは最上階がこれほど太陽に近いのだということを、知らなかった。
声は近く遠く、自分の名前を呼んでいる。グレーテルはやがて、それが自分の祖父の声であるということに気がついた。なぜなら、声は祖父の住み家であるお菓子の家から聞こえてきたからだ。

実はグレーテルはヘンゼルじいさんのことをよく知らない。
偏屈で金持ちで、ものすごい腕ききのパティシエだったということしか。
普通パティシエの名前は表にはでない。一流レストランでも有名になるのはシェフの名前ばかりで、そこでお菓子を作っているのが一体誰かなんて、はじめは誰も気にしてなかった。
けれども、世のマダムたちが旦那の働いている間にランチを楽しむようになってから、パティシエは脚光をあびるようになった。

「奥様、バナーヌのタルトでございます。パティシエ自らおとりわけいたします。ソースは何がよろしいですか?フランボワーズ?」
食後のコーヒーとデザート。甘い香りにつつまれた優雅なティータイム。それらを演出するのがパティシエの仕事だった。
ワインを選ぶだけの給仕がいるくらいだ。仕事は細分化すればいくらでもある。
ヘンゼルじいさんは5星とも言われたホテルのパティシエで、その独創性と繊細なお菓子づくりで一躍有名になった。そのうちに独立して、さまざまなメディアに登場し挙句の果てには脱税でつかまったりもした。
じいさんの得意技はなんといっても○○にそっくりなお菓子、であった。果物をかたちどったデザートにはじまって、動物に似ているケーキ。そのうち、誰もとめなくなったのをいいことに、それらは巨大化した。
人間にそっくりなチョコレートに、家にそっくりなお菓子の家。
じいさんの勢いはとどまるところを知らず、脱税で牢獄された先でも食堂でベルギーワッフルでクリスマスツリーを作ったりしていた。
その、夢のような人生……。

その人生の最後にじいさんは本当のお菓子の家をつくった。
ぷん、と香りたつバニラエッセンスの窓辺に、小さなチョコレートの猫が寝ている。屋根はながしこんだカラメルソースをかためたもの。床はふかふかのスポンジケーキ。チュロでつくったテーブルの上にあるのは小さな小さな、本当のケーキ!!
しかし、じいさんはそこで何かが足りないことに気が付いた。
家は建っていればいいというものではない。
家は誰かが住んでいるものだ。
じいさんは世界で一番ブラボーなことを考えたような気になって、まずは自分が住人になった。そのうちに男一人でお菓子の家に住んでいるということの異常さに気がついて、孫を呼ぶことにした。孫はさぞかし喜ぶだろう。なんてったってお菓子の家なんだから。
「グレーテルや、グレーテル !」
じいさんは孫に手紙を書き、かわいい孫娘がバスケットを下げてくるのをまった。
何年も待った。

そのうちにカラメルソースが熱でやわらかくなり、まるで雪解けのつららのようになった。
それでもじいさんは待ちつづけた。
窓辺の猫がぐったりしていた。それでも待った。
そして、とうとう往生した。
その遺恨といったらなかっただろうが、それでも安らかな表情で眠っていた。パウンドケーキのベッドの上でだ。

グレーテルは身震いした。
死んだはずの祖父の声がなぜ聞こえるのだろう。
やはり自分を恨んでいたのだろうか。しかし、両親にアルツハイマーの祖父に会うのは禁じられていたのだ。その両親も他界したため、こうしてグレーテルはここへやってこれたわけだが。
「じいさん ? ヘンゼルじいさん? 」
ぷるん、と家が動いたような気がした。
「……?」
「じ、じいさん!?」
彼女は最悪の状態を予測した。マショマロマンが襲ってきてもおどろくまいと心にきめた。
しかし。
「あ、ああっ!? 」
グレーテルは自分の目を疑った。そこにはありえない光景がひろがっていたのである。

<後略>

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