終戦まで

私は子供の頃、赤坂新町って言うところに住んでいました。今の乃木神社の近くです。一軒おいた隣が太田照造と言う人のうちだったんですが、粋な黒塀がずっと続く、玄関が見えないくらい奥の深い家でした。

その太田照造さんというのが当時寿美蔵といってたが、のちの寿海さんだったんですよ。何しろ子供だったから最初は判らなかったんだけどね。男衆に手をとられて照造さんが奥から出てきて人力車に乗って出かけるのを、よく見かけましたよ。

芸者さんが三人くらいで左褄をとって、よく遊びに来てましたっけ。

14歳くらいの時かな、近所の蕎麦屋の息子で直ちゃんといって新派が大好きなのがいまして、それで一緒に左團次の芝居を見に行ったんです。そうしたらその照造さんが芝居に出ていてね。それから歌舞伎に興味をもつようになったんです。

声色に熱中しだしたたのもその頃からです。直ちゃんと二人で「修善寺物語」の頼家と夜叉王を掛け合いでやったりしたもんですよ。

豊川稲荷の近くに七代目三津五郎さんの家もあったから、弁慶橋のところへフナを釣りに行った帰りによってのぞいたりしていたんですよ。

そうしたら、ある時三津五郎さんの奥さんが「ちょっと坊や、中にお入りよ」って中にいれてくれたの。残念ながら三津五郎さんは留守だったんだけど、「これおあがり」って飴玉を紙につつんでくれましたよ。二百三高地に髪を結い上げて、四角い火鉢の前に腰をべったり落として座っていたお婆さんだったなぁ。

今でもよく覚えているのは、庭にお稲荷さんがあったこと。あれは伏見稲荷から預かったものだったらしくて、戦後伏見稲荷に返したってことですよ。

16歳から歌舞伎座に通い始めました。山王下から都電で三原橋までね。そのころは前売りは歌舞伎座でしか買えなかったから、その日は一番電車で行って九時に売り出すまでずっと待っていたもんです。

それで今で言う三階B席、当時は梅といったが一円五十銭の席を買うわけです。その頃あった「評判記」という雑誌を皆持っていて一列に並んで待つんだけど、皆芝居が好きな人ばっかりだから芝居の話をするのが面白くてねぇ。だから前売りの日が楽しみでした。冬なんか寒いでしょ。炭を買ってきてそれで暖まったりしたものです。

その頃の芝居の思い出っていうとね、十五代目の羽左衛門が「黒手組助六」を演じたことがあったんですが、二役替わって権九郎と言う番頭もやりました。権九郎は「助六」の通人のように、その時の話題をセリフに取り入れて良いことになっているんですよ。

その権九郎が不忍池へたたきこまれて、蓮の葉っぱを河童のお皿のようにかぶって池から上がってくる時、「前畑がんばれ、前畑がんばれ!」と言ったのをよく覚えています。ベルリンオリンピックの年(昭和11年)の話です。

その他猿之助の弁慶、二代目左團次の富樫の「勧進帳」も良かったんですが、左團次がたとえば「元禄忠臣蔵」の大石なんかをやる時は「大統領!」という掛け声のほうが圧倒的に多かったんです。でも「播町皿屋敷」の青山播磨の時は「高島屋」と言う風に役によって掛け分けられていました。

その頃から私も直ちゃんと一緒になって、わけもわからないのに掛け声を無鉄砲に掛けていました。今考えるとちょっと恥ずかしい思い出ですが。その頃の大向うといったら三宅鶴三郎さんがいました。

20歳の時志願して軍隊に入って、満州で郵便逓送兵として3年間すごしました。その時上等兵だったのが松緑さん。それがご縁で帰ってきてからも松緑さんのお宅へ伺ったりしてました。

ずっと後の事だけど紀尾井町の松緑さんのところで今の團十郎さんが結婚する前に婚約者だった今の奥さんが来ていらして、紹介されたんですよ。当時は役者の女房といえば芸者さんが多かったけれど、あの方は素封家のお嬢さんで、とても感じの良い方でした。今も変わりませんがね。

まだ満州にいる時分、当時染五郎だった八代目幸四郎さんが慰問に来たことがあってね。松緑さんと一緒に三味線弾いたりしたこともありました。

23歳で帰ってきて1年内地にいましたが、こんどは予備役で招集されて通信兵で終戦まで北京にいました。終戦になってすぐ9月1日に帰れたのは運がよかったんです。

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