沈丁花の匂う午後

 

 

 

雨に濡れた舗道の上。どこからか沈丁花が匂ってくる。

花の甘い香りの中を、前をいく金色の髪が弾むように揺れている。

 

「ねえ・・・・そろそろ店もなくなってきたよ。買い物、しないの?」

009は少々疲れた声で先を歩く003に声をかけた。

アイボリー色のコートがくるりと振り返って、009に笑顔を向ける。

「そうね。じゃあ今度はそこを曲がってみましょうか」

「003!」

 

とたんに唇を尖らせる。

「ジョー? 今なんて?」

009は思わず首をすくめた。

-----街に出たらちゃんと名前で呼んでね。じゃないと周りの人が変に思うわよ。

そう言い渡されていたのを思い出す。

 

「ごめん・・・フランソワーズ。早く買い物しないと時間がなくなっちゃうよ」

「いいの」

「いいのって・・・・良くないだろ? 日が暮れるまでには戻らないといけないんだよ?」

 

心配してくれる009にちょっぴり罪悪感を覚えた003は、やっと白状した。

「ホントはね・・・買い物なんてないの」

「え? でも・・・・・・」

「だってそうでも言わないと外に出してくれないでしょう? だから」

碧の瞳がいたずらっぽく009に笑いかける。

 

「・・・・・・まったく!」

009は呆れ果てた。

「そんなにまでして街を歩きたいのかい?」

「ええ、もちろん!」

屈託なく答えて009の目を覗き込む。

「ね? もう少しだけ。いいでしょう?」

彼女からこんな顔で見られてダメと言える男はそうはいないに違いない。あの004でさえ。

009はくすっと笑った。

「しかたないな。あと少しだけだよ」

「ええ! ありがとう」

ふりこぼれるような笑顔を見せて、003はまた通りの店々や街路樹に集まる鳥たちを嬉しそうに眺め始めた。

 

 

 

補給のため寄港したドルフィン号。すぐに出航の予定が物資の調達の関係で1日そこにとどまることに

なった。

ぽっかりあいた時間を、ギルモアはメンバーたちのメンテナンスに充てようと決めた。

「002! オマエさんからじゃ」

「えー? オレならだいじょうぶだよ!どっこも悪くねえしな」

「いや、この間の戦闘ではだいぶ足を使ってもらったからな。不具合がないかどうかチェックせんと・・・・」

そう言いながら、渋る002を無理やり引っ張っていく。

 

コクピットに笑いが漏れた。

「僕らは? 休憩ということでいいのかな?」

008が後ろの004を振り返った。

「そうだな・・・。ここに一人残ってればいいだろう。俺が先に残る。後で誰か代わってくれ」

「了解! 久しぶりにゆっくり眠れそうだな。じゃあ悪いけど頼むよ」

大きく伸びをして立ち上がり008はコクピットから出て行く。何となくその後姿を見送っていた009は、

003のそわそわした様子に気づいた。

 

「ね、004?」

「なんだ?」

「私・・・・ちょっと船を下りて街に行ってきてもいい?」

004が眉をしかめる。

「何か用でもあるのか?」

「そうじゃないんだけど・・・・あ、いえ、そう、ちょっと買いたい物があって・・・」

「メンテはどうする」

「最後にやってもらうわ。それにそんなに遅くならなうちに戻ってくるから・・・ね?」

小首をかしげて004を見上げる。普段の彼女よりちょっぴり可愛らしい声で何とか004を陥落させようと

している様子に、009は浮かんできた笑いを噛み殺した。

 

「何度も危ない目にあってっるってのにまだ凝りないのか?」

004はあきれたように肩をすくめている。

去年のクリスマス、パリに一人降り立った003はブラックゴーストの精神攻撃を受けた。幸い009が

手遅れになる前に見つけ出し、事なきを得たのだが。

そしてついこの間もロンドンの街を一人で歩いていて、彼女は怪しい気配を感じ逃げ帰ってきた。結局

それもブラックゴーストだったのである。

 

そう言われるのは予想していたのだろう、003はニッコリ笑って

「あの時は確かに不注意だったわ。今度は気をつけるから」

そして、それでも首を縦に振らない004に最後の切り札を出す。

「ね、お願い。男の人には頼めない買い物だってあるし・・・・」

 

恥ずかしそうに目を伏せる003に、ついに004も折れた。渋い顔で一つためいきをつく。

「・・・・・・しかたないな」

とたんに003の顔がぱっと明るくなった。

「・・・でも!」

「?」

「一人じゃダメだ。誰か一緒に・・・・」

「え? だいじょうぶよ!」

「だめだ。どうしても行きたいのなら誰か一緒に連れていくんだ」

 

 

 

そんなわけで、009が姫のボディガードとしてついて来たのだった。

何故自分が指名されたのか分からないが、彼自身何となく自分が一緒に行くことになるんだろうな、と

思っていたので快く引き受けた。だが---------

 

・・・・知能犯だな。

空を見上げたり店を覗いたり、いかにも楽しそうな003を見ながら009はおかしくなった。

 

前から歩いてきた男がじっと彼女の顔を見つめ、軽く口笛を吹いてすれ違う。

これで何人目だろう。

最初の2〜3人は009もある程度身構えた。しかし、すぐにそれが美しい彼女への賛美なのだと気づいて

今はもう軽く一瞥をくれるだけだった。連れがいようがいまいが魅力的な女性にはかかさずアピール

するのがこの国の男の習慣らしい。

 

もっとも003は彼らのことをまったく眼中に入れていなかった。

相変わらず好奇心でいっぱいの目をして、雨上がりの道を歩いていく。

 

009はふと、自分達は周りからどう見えるのだろうと考えた。

恋人同士、には見えないだろう。

友達・・・・・・ちょっと違う。

きょうだい? ・・・一番らしいかも。はねっ返りの姉と、心配する弟。

ふぅ、と009は何となくためいきをつく。

 

そこへ、風にのって、また沈丁花の香り。

009は香りがしてきた方に何気なく目を向けた。

 

あれは・・・・・・。

 

「ジョー?」

立ち止まって、すぐ横の路地の奥を透かし見るようにしていた009を、003が不思議そうに振り返った。

そのまま路地に入っていく009の後を追いながら、

「ねえ、どうしたの?」

「教会が・・・・・・」

「え? ・・・・あら、本当。こんなところに」

 

路地の奥にはもう一本、さっきまで彼らのいた大通りと平行した道があり、その通りと路地が

ぶつかるところに、一軒の古い教会がある。入り口に上る石段の前で009は立ち止まった。石段の

両脇に大きな沈丁花が一株ずつ植えられていて、風が吹くたびに強い芳香を放つ。

 

記憶の箱の、一番古い引き出し。

 

”・・・・・これは沈丁花というんだ。普段は目立たないけれど、春を告げる花だよ”

 

言葉とともに頭の上に置かれた温かい大きな手。

あの時自分はうなずいたのか、それともその手を払ったのか。

 

「009? どうかした?」

不安そうな顔で自分を見つめる003を、ゆっくりと009は振り返った。

「ジョー、だよ」

安心させるように微笑んで、また教会に目を戻した。

「似てるんだ・・・・僕がいた教会に」

「え・・・?」

「不思議だな・・・。少し小さいけど、あの屋根の感じとか窓の位置とか、そっくりだ」

「・・・・・・・・・・」

 

003は改めて目の前の教会を見上げた。正面の扉の上に大きなステンドグラスのはまった窓。

石造りで荘厳な感じの建物だが、その分どこか暗く重苦しいような印象を与える。

003は、身動きもせずそれに見入っている009の顔にそっと目を戻した。

わずかに開いた唇。風に揺れる明るい栗色の髪からのぞく琥珀色の瞳は何を映しているのか。

 

「・・・・中に入ってみましょうか」

003がふいに明るい声を出した。

「え?」

「もしかしたら同じ人が設計したのかも知れないわ。ね、入ってみましょう」

「・・・・・・・・」

先に立って石段を登っていく003に少し遅れて、009もゆっくりとその後に続いた。

 

 

 

ぎぃ、と軋んだ音がする重いドアを開けるとそこが礼拝堂だった。

ステンドグラスからわずかな光が漏れているが、それでも中は薄暗い。

正面に祭壇、その一段下には小さなオルガンがある。周りの壁には数枚の宗教画。

並んだ長椅子に人影ははく、車椅子に乗った老人が隅で絵を見上げている他は、ひっそりとしている。

 

「・・・・・同じだ」

009がポツリと呟く。そしてそのまま口を閉ざし、静かに視線を巡らせていく。

「そう・・・」

003はそっと彼のそばを離れた。彼が過去へ思いを馳せるのを邪魔しないように。

 

ここで・・・・こういう場所で彼は暮らしてきたのだ。

私が両親や兄さんの愛情に包まれて過ごしてきた年月を、他人に囲まれて。

神様は・・・・あなたを愛してくれた?

 

背後に感じるジョーの心が震えているような気がする。

本当は抱きしめてあげたい。でも・・・・・そんなことできるわけない。

彼も望んではいない。だって私たちは・・・・・普通の友人ですらない。

 

小さくため息をついて、003は飾られている絵に目を向けた。

 

 

 

-----こんな異国で、あの教会に出会うなんて。

009は無意識に椅子の背もたれにつけられた飾りを撫でていた。

彼が暮らした教会は既にない。あの温かな手も、仲間たちも、そして・・・・・自分自身も。

 

物思いに沈んでいて気づくのが遅れた。

「きゃ・・・!」

小さな悲鳴にハッとして振り向くと、003がさきほどの車椅子の老人に無理やり腕を掴まれている。

「003!」

とっさに彼女の前に出ると、009は老人の枯れ枝のような手を引き剥がそうとした。

「何をする?!」

「うう、う、おおお・・・・」

老人はちらと009の方を見たが、すぐにまた003に向き直るとまわらない舌で何かを一生懸命

訴えながら、なおも003の袖口をつかんで離そうとしない。

「うぉぉ・・・ゆる・・し・・て・・・・く・・・・」

 

「何事ですか・・・・?!」

騒ぎが聞こえたのか、正面横のドアが開いて、おそらくここの神父だろう、法服を着た初老の男と

エプロンをつけた大柄な中年の女性が、慌ててやってきた。

 

「まあ、おじいちゃん、何てことをしてるんですよ!」

女性が老人に大声を上げる。その声に反応して、老人はノロノロと顔を女性に向けた。

「ホラ、離しなさいよ! 娘さんがびっくりしてるじゃないか」

まだ何かをもごもごと喋っていたが、老人はようやく003から手を離した。しかしその半分ただれたような

目はまだ彼女の顔を食い入るように見つめている。

 

「すみません。ちょっと痴呆が進んでまして・・・・。身寄りがなくてホームで暮らしているんですが、

どうもこの絵がお気に入りでしてね。よくこうやってボランティアさんに連れられて、ここで一日過ごして

いくんですよ。普段は大人しい人なんですが・・・」

首をひねって、神父が003と009に謝った。

 

「・・・・・・いえ、大丈夫です」

掴まれていた手首を軽く押さえ、003が低く答える。

心なしか蒼ざめたその顔を009は心配そうに見つめたが、003は平気よ、というように笑ってみせた。

そして老人が気に入っているという、目の前の一枚の絵を見上げる。

 

(あ・・・・・・・・)

つられてその絵を見たとたん、009は心の中で小さく声を上げた。

幼子イエスを抱く聖母マリア。

どこにでもある構図。009が育った教会にもそのマリア像があった。------とうに燃えてしまったけれど。

 

(似てる・・・・・?)

半ば呆然と見つめている009には気づかず、003は静かに言った。

「聖母マリア・・・・この絵を見ていたのね。何を想って・・・・・・」

 

そんな003をじっと見ていた老人が、また何事かをうめき始めた。

「ああ、また! 一体今日はどうしたっていうんだろうねぇ。 さ!帰りますよ!!」

女性は強引に車椅子の向きを変え、神父と009たちに軽く会釈をすると出口に向かおうとした。

 

「おお、お、おお、うう・・・!!」

一際大きく老人が叫び、悲痛な表情で003を振り返る。

 

「・・・・・・・・・・・・」

「フランソワーズ?!」

老人の前に歩みを進めた003に、009は驚いた。

しかし彼女は腰をかがめて老人の顔をまっすぐ覗き込んだ。軽く首をかしげ

「何か、私に・・・・・・?」

 

「・・・う・・・して・・、ゆ、る・・し・・て・・くれ・・」

「? 許してくれ・・・?」

「し・・・・し、あ・・し、あわ・・せ・・・か・・・」

 

------幸せか?

 

003の瞳が大きく見開かれる。

「まぁ、何を言いだすんだろう、この人は! ホント呆けちゃって困ったもんだわ・・・!!」

けたたましく喋る女性をよそに、老人はなおも額に汗を滲ませ、必死に言葉を搾り出そうとしている。

「し・・うぉ・・し、し・・あ・・わせ・・・?」

 

009は言葉もなく、二人を見つめていた。

やがて、003の強張った顔がふっと緩んで、彼女は見る人の心に沁み入るような微笑を浮かべた。

「・・・・・・はい。幸せです」

 

「おお・・・お・・お・・・・・・!」

老人の顔がくしゃくしゃになったかと思うと、皺だらけの頬を涙が幾筋も伝って落ちた。

 

「まったく・・! なんだろね、この人は!」

車椅子を手荒く押して遠ざかっていく女性の背中ごしに、老人は何度も003を振り返った。

そして003も、彼らがやがてドアの外に消えるまで、その微笑みを消すことなく、老人を見つめていた。

 

「・・・・フランソワーズ・・・どうして・・・・・」

009は問いかけを呑み込んだ。

(どうして、幸せなんて? そんなはず・・・・・だって君は)

 

009の胸の内に気づいたかのように、003はちょっぴり照れくさそうな顔を向けた。

「だって・・・何だか、あのひと・・・・」

瞳を伏せてひっそりと微笑む。

「私に、そう言って欲しいと思ってるような気がして・・・・・」

 

・・・・・・ああ、そうだ。

やっぱり似ている・・・・・・あの聖母マリア。

今のこの微笑。そしてイワンを抱いているときの君が、よくあんな表情(かお)をしている。

あの老人もきっとそう思って、だから彼女に・・・・・・。

でも、マリア様に 許してくれ? 幸せか、なんて。彼はマリア様を通して何を見ていたんだろう。

 

「・・・・ジョー?」

黙って自分を見つめる009に、003は怪訝そうな顔で首をかしげる。

「何か・・・変?私・・・・」

 

009はふっと目を細めた。

----あの老人の過去も、胸の内も、きっと彼女にはどうでもいいことなんだ。

ただ、彼が求めていたものを与えただけ。

 

「いや・・・さあ、もう帰らなきゃ」

 

 

外へ出ると、相変わらず空は低い雲に覆われていて、かすかに雨の匂いがする。

路面もまだ濡れているのに、また降り出しそうな気配。

009の鼻腔に、花の香りがまとわりつく。

一度だけ教会を振り返った009の瞳に、初めに見たときようなのうつろな翳はない。003の深い碧の瞳が

それを認めて、安心したように輝き出した。

 

 

「・・・・せっかくの散歩なんだから、もうちょっといい天気なら良かったね」

帰り道、009は相変わらず楽しげに周りの景色を眺めていた003に声をかけた。すると、

そんなことないわよ、と彼女は振り返って

「こんなお天気の日って沈丁花がいつもより香ってくるから、好きなの」

「・・・・・・・・・」

黙って自分の顔を見つめた009に、彼女はくすっと笑った。

「沈丁花。知らない? ホラ、今もいい香りがするでしょう? さっきの教会の前にもあったのよ。あまり

目立たないから気がつかなかったかしら。でも、大好きなの。この香りがするとホントに春が来たな、って

思う。雨上がりだと余計に香る気がして・・・・」

 

・・・・・・知ってる。

雨に濡れてしっとりした空気の中で、より強く感じる甘い香り。

同じ香りの中で同じことを思っていたんだ。

 

そういえば・・・・これまでもよくあった。

同じことを考えていたり、今みたいに同じことを感じていたり。

それだけじゃなくて・・・。

僕がして欲しいこと言ってほしいことを、何も言わないのに彼女は分かってくれているようで。

 

けれど、と009は思う。

それは自分に対してだけじゃない。彼女はいつも与えている、まわりのみんなに。

さっきの老人にも。おそらく彼が求めていた言葉を、まなざしを。

 

 

 

濡れた舗道の上、花の甘い香りの中を、弾むように揺れる金色の髪。

 

「・・・・転ぶよ!」

言ってるそばから足を滑らせて。

 

「ホラ!」

ぶっきらぼうに差し出された手に、驚いたように彼女は目を瞠る。

そしてちょっぴり頬を染め、だいじょうぶなのに、そう唇を尖らしながらもそっと白い手を彼の手に預ける。

 

「行こう!」

照れくさそうに微笑みかわして、二人は駆け出した。

 

 

沈丁花が香る中、今度転ぶときは、ふたり一緒。

 

 

 

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