<Ballet>

 

 

 

  シマムラくんの彼女はバレリーナ。

  けれどシマムラくんが彼女の舞台を観たのは、まだ一度しかない。

  なぜなら。

 

 

「今度はここでも踊るの。近いから、もし良かったら観にきてね」

遠慮がちに、彼女が何枚かのチケットをシマムラくんに渡した。初めてのこと。

車で1時間のところにあるホールの名前。シマムラくんもよく知った物語のタイトルが目に飛び込む。

「うん。でもなんか・・・・恥ずかしいな。見に行くの、ほとんど女の人なんだろ?」

「確かに女の人の方が多いけど、もちろん男の人だっているわよ。・・・・嫌なら返して」

慌ててシマムラくんはチケットを背中に隠す。

「いや、行く、行きます。一度見てみたかったし・・・君の踊ってるとこ」

 

それは本当。彼女が、小さい頃からバレエに夢中で、一度夢を絶たれてからもなお、

一生懸命に打ち込んでいることは知っている。はじめは週に2日のレッスンが、4日、6日と

伸びていき、いつの間にか舞台に立って地方公演なぞにも参加するようになったことを、

シマムラくんは彼女のために、とても喜んでいた。

 

しかし。

シマムラくんにはバレエというものがよくわからない。「バレエ」と聞いて思い浮べるのは

「白鳥の湖」(音楽はすぐには思い出せない)、「白い円盤みたいなスカート」(クラシック・

チュチュなんて名前は無論知らない)、「トウシューズ」(ポアントと彼女は言っていなかったか?)

せいぜいこんなものである。

そのごくわずかなイメージを彼女に重ねることが、何故かシマムラくんには難しい。

 

シマムラくんの知っている彼女は。

赤い特殊な服を着て、眉を寄せ耳をすませている。

やわらかな色のワンピースで、赤ん坊のオムツを替えたり、ミルクを飲ませたりしている。

細身のジーンズで、ケラケラと笑いながら、自分と一緒に花壇を掘り起こしている。

 

だから。

あんな衣装を着て、舞台で踊る彼女というのが、どうしても想像できない。

頑張って頑張って想像してようやく、「きっときれいなんだろうな」と漠然と思う。

 

そんなシマムラくん、生まれて初めてのバレエ鑑賞。

前列正面の、とてもいい席。同行の老人とイギリス紳士に挟まれて、何だか落ち着かない。

やがて照明が落ち、舞台の幕が上がる。

 

「お、彼女だ」

隣で囁く声に、信じられない思いで目を瞠る。

あれは・・・・だれ?

華やかな笑顔も、切なげな眼差しも、ボクの知ってる彼女じゃない。

あんなに軽やかに、跳んで、回って。殆ど床に足がついてないんじゃないか?

すごい・・・・・。こんなにすごいなんて。

あれが、ボクの、彼女。

 

―――でも。

シマムラくんは次第次第に、何だか胸の中がモヤモヤしてきた。

どうして。どうして、あんなにくっくかなきゃ踊れないんだ?

さっきからずっと彼女の腰に手が。 あ、胸触った! ああっ! ホントにキスしなかったか?今。

 

・・・・・・・触るな。彼女に触るな。触るな! 触るな! 触るなあっっ!!

 

もちろん。

それが非常に程度の低い感情であることは、シマムラくんにもわかっている。

だから、何とか努力した。念仏のように心に唱える。

あれは、芸術。  芸術・芸術・芸術・・・・・・。

あれは、お芝居。  芝居・芝居・芝居・・・・・。

 

一生懸命自分に言い聞かせ、舞台が終わる頃にはぐったりと疲れ切ったシマムラくん。

カーテンコールで自分の方を見てニッコリ微笑んでくれた彼女に、笑顔を返すことも出来なかった。

連れの二人はさかんに彼女を賞賛している。老人にいたっては、感極まったのか涙さえ浮かべて。

シマムラくんは、自分の低俗さが、つくづく恥ずかしかった。

こんな気持ちで観ていたことが、彼女に知れたら。 

軽蔑されるのは間違いない。

 

そんなわけで。

不謹慎な自分につくづく嫌気が差したシマムラくんは、心穏やかにバレエを楽しめるようになるまで、

しばらく彼女の舞台を観るのは控えようと心に決めた。

それがいつのことになるのかは、自分でもよくわからなかったが。

 

公演が終わり、彼女が家に帰ってきた。

波打つ亜麻色の髪をカチューシャで押さえ、今日は黒のタートルにチェックのスカート。

化粧っ気のない顔で、オムツの安売りがどうとか言っている。

シマムラくんにはまだピンとこない。

あのときの彼女と、ここにいる彼女が同じヒトだということが。

 

でも無論、どちらの彼女も、シマムラくんには愛しいわけで。

だからいつか。きっといつかは。

 

 

 

 

 

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