万葉集と詩経

万葉集について
7世紀後半から8世紀前半に万葉仮名(漢字)で書かれた日本最古の歌集。約4500首。編者不明 大伴家持説が有力。いつ、だれが、何の目的で編纂したかは確実なことは判っていない。

<以下個人的な私見>
万葉集と中国の詩経を読み比べると妙な共通点に「おやぁ〜」と感じることがあります。・・・・・
詳しくは「万葉集の誕生と大陸文化」 山口 博 著 「詩経」白川 静 著、「万葉を考える」梅原 猛 著 など

当時、日本の権力者(天皇と政治家)が中国から帰国した遣唐使、遣隋使の報告はたぶん驚愕したことでしょう。まず日本と中国の文明の差を強烈に自覚したに違いありません。なんとかして中国と対等にならなければと思ったことでしょう。

遣唐使、遣隋使がもたらした文明は文化、科学、政治、経済、農業など広範囲でした。特に造船、航海、天文学、数学は国家の産業として軍事力集約され、鉄、金、銀などは身近な技術革新としてそして貨幣に経済力として国家の基本になります。文字は紙の製法につながり仏教と文化の根幹をささえる先端技術になりました。

中国から先端文明を学ぶには対等な文明国家と認められなければなりません。その当時中国は中近東、ロシア南部、モンゴル、東南アジアの覇権国家で世界の富が長安にぞくぞく集まりました。まさしく世界の中心を謳歌していたでしょう。そして国の成り立ちから民衆を歌った「詩経」がありました。格好の目標だったと思います。日本の国家と近代文化をどうしても中国に理解してもらうには日本独自の「詩経」を編纂する必要がありました。
「万葉集」をもって日本文化の象徴とした。
そのために国の歴史を検証し歌謡や歌をできるだけ詳しく全国各地から収集した国家事業でありました。おそらく参加した人々は国家の中枢で活躍した官僚が多数だと思います。最高責任者は時の天皇でしょう。

中国に万葉集を献上した記録でも残っていれば面白いのですが・・・・・
もしくは敦煌の石窟に人知れず眠っているのかも・・・・・

以上のような先入観で鑑賞しますと、古代の人々も民族が違っても現在の我々と同じく家族を思い平和を望み、戦争を憎み、権力者の横暴を嘆き、愛を賛歌して生きていたんだなぁ〜と思いを新たにするのです。

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