§.理性と感性の数学的考察|補遺
[権力者とメディアと大衆の相互関係]
(Mathematics of Reason and Sense, SUP.)

−− 2004.03.15 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2006.07.28 改訂

 ■大衆民主主義に於ける”三角関係”
 ★このページは本論(Main-issue)
  理性と感性の数学的考察(Mathematics of Reason and Sense)
補遺ページ(Supplement-Page)です。


 当補遺ページで扱う問題は、本論の中の「国家や社会に於ける理性軸と感性軸」の議論を受けてそれを更に発展させる為の議論ですので、それを踏まえた上でご覧下さい。前提議論をお読みで無い方は御一読下さい。
 さて、本論の中で私は現代に於いて安定的に存続し得る体制は「大衆民主主義」であるとし、更に大衆民主主義国家に於いては
  [1].権力者のみで国家を私物化することは出来ない
  [2].権力者側の直接情報から疎外された人々を大衆と定義
  [3].権力者と大衆とを決定的に隔て、大衆に”間接情報”を大量に媒介する者がメディア(特にマスメディア)である

ことを分析的に割り出しました。そして大衆民主主義体制の中からカリスマ的独裁者が創り出され、国が破滅して行くカタストロフィーのメカニズム(※1)とその要因を指摘しました。
 当ページでは大衆民主主義を支える三大要素である

    <権力者とメディアと大衆の相互関係>
      = 大衆民主主義に於ける”三角関係(eternal triangle)”

  権力者 ←─→ メディア(或いはマスメディア) ←─→ 大衆
   ↑                            ↑
   └────────────────────────────┘

について分析し、それらの相互関係を論じて行きます。その為にこの「権力者とメディアと大衆の相互関係」を、私はここで「大衆民主主義に於ける”三角関係”と命名し”三角関係”について分析して行きます。
 これは本論では「大衆とメディア」(或いは「大衆とマスメディア」)の関係について主に論じましたが、補遺ページでは「権力者とメディア」「権力者と大衆」という視点を与えるものです。

 ■権力の主体 − 大衆と政治家
 ところで大衆民主主義国家に於いて「権力の主体」は一体誰でしょうか?
 「権力の主体」と言うと誰しも真っ先に政治家をイメージすると思いますが、果たして政治家にどれだけの”権力”が有るのか?、そもそも近代的な大衆民主主義国家に於いて何を以て”権力”と言い得るのか?、何が出来たら”権力者”なのか?、実ははなはだ曖昧なのです。にも拘わらず権力或いは権力者という言葉は日常頻繁に何気無く使われて居ます。この問題を解き明かすのがこの論考の目的なのですが、ここでは一応世間一般的にイメージされて居る概念、即ち「何をしても罰せられず、自分の思い通りに国を動かすことが出来る独裁者」を取り敢えず”権力者”として置きましょう。
 歴史を振り返ると国家的カタストロフィーに於いては、必ずと言って良い程政治的独裁者が登場して居ます。本論では、その例としてドイツのアドルフ・ヒトラー、日本の東条英機、イラクのサダム・フセインを取り上げました。そして彼等がカタストロフィーを引き起こしたのですが、では国家的カタストロフィーは彼等だけの責任なのでしょうか?
 歴史はこのカタストロフィーを「独裁者の責任」として裁きました、つまり一部の独裁者が”悪者”という訳です。日本も前大戦後、東京裁判に於いて −これは日本を占領したアメリカGHQの主導の下に演出されましたが− 独裁者が悪いということに成って、全ての責任は独裁者とその周辺幹部に押し付けられたものと看做しました。本当にそうなのでしょうか?、皆さん。
 日本の東条英機内閣は、形式的には国民の”審判”を得て、即ち大衆が投票した結果成立した内閣なのです、東条という独裁者は日本の間接民主制の下で大衆に選ばれたのですよ!!


    ◆大衆民主主義に関するエルニーニョの小定理
 ここで大衆民主主義に於ける重要な定理を提出しましょう。
  「大衆民主政治では政治家に善悪無し、唯大衆に賢愚の別有り」
或いは言い換えると
  「大衆民主政治では賢い大衆が善政を、愚かな大衆が悪政を導く」
これを大衆民主主義に関するエルニーニョの小定理と言います!!
                (-_*)
 例え形式的・間接的ではあっても、大衆民主主義国家に於いては、政治家は”選挙”という登竜門を潜って来なければ檜舞台に登場出来ないのです。つまり「主権在民」、大衆民主主義の主権者は、”大衆”即ち、私たち名も無き庶民なのです。そして「権利」を有するということは、それに対する「責任」を負うことであり、常に「権利と責任」は表裏一体だ、ということをはっきりと認識する必要が有ります。
 私は戦後日本の再出発に際して、戦争責任を全て東条と軍部に転嫁し、そういう指導者を選び出した”大衆の自己責任”が一切問われない儘ズルズルと今日迄来て仕舞った所に、日本の戦後再出発に於ける根本的な誤りが有ると思って居ます。その結果現在の日本の大衆は事有る毎に「100%被害者」を装い、権利だけを主張する”恥知らずな”人種に堕落した様に思えます。つまり”大衆の自己責任”という本質的な反省や総括が為されなかった為、原爆の熱さと痛さを忘れた大衆は、前大戦中には”鬼畜”と呼んで居た「原爆を落とした国」に、いとも簡単に尻尾を振り飼い馴らされて行き、「戦後」の無い(←この国は常に何処かで戦争をしている!)「原爆を落とした国」の手下と成り、”戦争を放棄”したにも拘わらず「原爆を落とした国」が仕掛ける戦争に駆り出されて行くことに成るのです。
 つまり、日本の場合、真に悪いのは大衆だったのです。


 ■
 私はこの点に於いて戦後日本の再出発はスタートから躓いて居ると考えて居ます。つまり、あの破滅的な結果を招いた日本の第二次世界大戦のカタストロフィーの真の原因は東条よりも、彼を選出した選挙民、即ち”大衆”に在る、というのが私の一貫した主張であり持論です。何故ならば大衆が事前に東条を指名する様な政党に投票しなければ、東条英機の出現は回避出来たのです、論理的には。然るに、”大衆”は裁かれること無く、即ち自分たちは東条に引っ張られた「100%被害者」なのだ、という形でスタートして仕舞った点に戦後日本の不幸が有る、と私は考えて居ます。では何が「不幸」なのか?、それは次回で論ずることにしましょう。しかし先に結論を言うと、この”誤った再出発”が、今日の様な”自立出来ない日本”を作り上げて仕舞った根本原因なのです。

 ■



歴史に於いて結果論はナンセンスに思われ勝ちですが、







  の「自己責任論」を参考にした上で次の定理を良く吟味して下さい。



 ■大衆民主主義の限界とその克服
 この文は飽く迄マスメディアの発達した近・現代社会の分析です。その分析の基に成っている考えは「理性と感性の数学的考察」(=[大衆民主主義論#1])の「考察」の章ですので、時間に余裕の有る方はもう一度「考察」の章に目を通して戴ければ幸いです。
 古代に於いては生け贄の儀式などに於いてスケープゴートが神に捧げられ、支配者がそれと一体化して”神”と同等のカリスマ性を獲得します。この場合、壮麗な神殿やきらびやかに飾られた宝物がメディア(=媒介するもの)と言えるかも知れませんが、大衆は生け贄の血を直接見、生け贄の悲鳴を直接聴くことが出来ました。即ち、直接情報なのです。
 しかし、マスメディアの報じる映像や音声は、飽く迄「間接情報」なのです。その意味は直接情報から疎外されているからです。そしてマスメディアは権力者と大衆を徹底的に隔絶させます。何故なら隔絶させればさせる程”媒介者”としてのマスメディアの存在価値が高まり、マスメディアは益々”壁”として大衆の前に立ち塞がり、やがて大衆はマスメディアを権力者と同等に”崇拝”し始めるからです。そして一度崇拝されたマスメディアから送り出された者は同じく”崇拝”され、これが馬鹿タレントが選挙で当選するカラクリなのです。
 そして上に記した様に大衆は権力者と隔絶されればされる程益々マスメディアを”崇拝”して行きます。現在、日本やアメリカやヨーロッパなどの主要先進国はマスメディア崇拝国家でもあるのです。それは新興宗教の信者が教祖を崇拝するのとそれ程遠くは無い関係で、テレビ局のキャスターやアイドルタレントは或る意味で教祖的な役割を演じて居ます。そういう意味では馬鹿タレントが選挙に当選して居る間は未だ良いのかも知れません、”利口”が相当数出て来た時が怖いのだと思います、それは前述の”結論誘導”に結び付く恐れが有るからです。どうやらこの辺に大衆民主主義の限界が有りそうな気がします。
 以上の様な観点から私は大衆一人一人が付和雷同せず誘導されずに、マスメディアの「間接情報」を何処迄も批判的に取捨選択し消化出来るかが大衆民主主義の試金石に成ると考えて居ます。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 現在の日本の様に情報が”過剰”な状況(△1のp3〜p7)に於いては、自分にとって不必要な情報をとことん捨ててみるのも一つの方法です。例えば昼のワイドショーの情報が、自分が生活する上で本当に必要なのか、人生を豊かにして呉れる情報なのか。自分にとって必要の無いものは情報では無く本当はゴミということに気付くべきです。人間は原点に帰り他人の動向に振り回されず自分を省みる必要が有る、と私は痛感して居ます。食べ物のダイエットと同じ様に情報のダイエットを私は提唱します。

 一人一人が批判的に情報を消化すれば、総体としての意見は幾つかに分散されバラつく筈です。私は或る程度バラついた状態を保つことが、全体主義的な単一の”結論誘導”を回避し、国家の安定性を維持する(=2軸への配分を6:4以内に保つ)のに必要且つ重要だと考えて居ます。それは多様な価値観を認め合うことであり、それは今迄マスメディアで散々吹聴されて居たグローバリズムでは無く、ローカリズムの尊重なのです。今迄言われたグローバリズムはアメリカの一国覇権主義の台頭と共鳴し合い、”世界のアメリカ化”を正当化する政治概念だったということに気付くべきでしょう。








国民愚民化の道具
衆愚
ポピュリズム(populism)
衆愚民主主義
メディア中心の民主主義(=衆愚民主主義、バカ・ブス民主主義)の社会では、「多い」と「正しい」は同義




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−−− 完 −−−

【脚注】
※1:カタストロフィー(catastrophe)とは、[1].破局、突然の大変動や激変のこと。カタストロフ。
 [2].〔数〕カタストロフィー理論/破局理論(catastrophe theory)。現代幾何学であるトポロジーの一分野で、1960年代にフランスの数学者ルネ・トムが創始した数学理論。不連続な過程を扱う。急激な変化を伴う自然・社会現象の過程を図形を用いて表すことなどに応用されて居る。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>







※9:衆愚政治(しゅうぐせいじ、mobocracy, ochlocracy)とは、堕落した民主政治の蔑称。元、古代ギリシャのアテナイでの民主政治を、アリストテレスが「政治学」の中で「堕落した大衆に依る政治」として非難した語。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※9−1:ポピュリズム(populism)とは、この場合、一般大衆の考え方や要求を代弁して居るという政治上の主張や運動。
※9−2:ポピュリスト(populist)とは、この場合、一般大衆に迎合する政治家。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>












※30:演繹(えんえき、deduction)とは、[1].[朱熹、中庸章句序]意義を推し拡げて説明すること。
 [2].推論の一種。前提を認めるならば、結論もまた必然的に認めざるを得ないもの。数学に於ける証明はその典型。演繹法。←→帰納
※30−1:演繹法(えんえきほう、deductive method)とは、[1].確立された一般的原理から個々の事柄、乃至は認識を導き出す推論の方法。幾何学などの公理と定理の関係はその代表例。
 [2].経験や事実に頼らずに、論理的必然性のみである命題から別の命題を導き出す推論の方法。三段論法数学的論理学の方法はその代表例。←→帰納法。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※30−2:帰納(きのう、induction)とは、 推理及び思考の手続の一。個々の具体的事実から一般的な命題、乃至は法則を導き出すこと。特殊から普遍を導き出すこと。←→演繹(えんえき)。
※30−3:帰納法(きのうほう、inductive method)とは、帰納を用いる科学的研究法。特に因果関係を確定するのに用いる。ソクラテスが発見しアリストテレスが方法的に整えたエパゴーゲー(還元法)に始まり、スコラ哲学F.ベーコンを介し、J.S.ミルが大成した。狭義ではミルの定式化した因果関係確定の五つの方法(一致法・差異法・一致差異併用法・剰余法・共変法)を指す。←→演繹法



    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『過剰化社会』(D.J.ブーアスティン著、後藤和彦訳、現代社会科学叢書)。


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