−− 2009.01.05 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2012.09.30 改訂
■はじめに − 丑年に相応しい神社の話
今年は丑年(うしどし)です。これは十二支 −年月日・時刻や方位を表すのに用いられる− に基づく12年周期の数え方ですが、更に年と日には十干と組み合わせた十干十二支 −60通りの組み合わせで単に干支(かんし)とも言う− が適用されて居ます。それで言うと今年は己丑(つちのとうし)です。実は私は丑年生まれで、私の本当の干支は癸丑(みずのとうし)なのですが、一部では己丑(つちのとうし)ではないか(?)と噂をする向きも有ると聞き及んで居ます。まぁ、癸丑も己丑も音読みすれば何れも「きちゅう」で同じですから良しとしましょう、オッホッホ!
丑年の十二支獣は牛、そこで今年は牛に因んだ話をしましょう。十二支についてや、十二支獣の並びで我が牛が何故に鼠如きの後塵を拝したかは「2006年・年頭所感−十二支と猫」をご覧下さい。
日本では正月に初詣でをする習慣が在りますが、今年は境内に牛が居る神社を参拝するのが宜しかろうと思います。と言えば、皆さんはもうご存知ですね!
そうです、天満宮や天神社(※1)の境内の片隅には寝そべった牛の像が必ず置かれて居ます。菅原道真 −菅公(かんこう)と尊称される(※2)− を天神(てんじん)(※2−1の[3])として祀る社は、稲荷社、八幡社、伊勢神明社に次いで全国で4番目に数が多く約1万余社在ります(△1のp295)。ということで今年は天満宮の名の由来や天神信仰について述べましょう。但し、「天神」と名の付く神社でも大阪の御幸森天神宮や京都の五条天神宮/藁天神/北白川天神宮などの様に菅公とは無縁な神社も少数乍ら存在しますので注意が必要です。これらの神社は【脚注】※2−1の[1]の「天の神」という意味の天神(てんしん)や天孫系の神を祀る神社で、祭神も神社に依り様々です。
■天満宮の牛 − 太宰府天満宮の起源
(1)道真と牛の因縁
では天満宮や天神社に牛の像が在るのは何故か?
先ず菅原道真が生まれた845(承和12)年 −月日は6月25日とされて居る(△2)− の干支は乙丑(きのとうし)、つまり道真は丑年生まれです。しかし、これだけでは根拠薄弱ですね。根拠は道真が左遷された配所の大宰府(※3)に在るのです。尚、「大宰府」の表記の問題ですが、律令制時代の歴史的名称には「大」の字、現在の市や天満宮の名には「太」の字(「大」に点有り)を使い分けします。
左遷の経緯は後述するとして、配流から2年後の903(延喜3)年2月25日に道真は無念の裡に大宰府で病没(享年59歳)しました。太宰府天満宮の由緒書は、道真の遺骸を正庁の都府楼(※3−1)から牛車で北東の方角の墓所に運ぶ途中で急に牛が伏して停止、近習らはこれを「菅公の御心」と悟りその地に葬り安楽寺とし弔い、905(延喜5)年に味酒安行(うまさけのやすゆき)に神託が降り陵墓の上に廟を建てたのが神社の創祀と伝えます(△2)。
それ故に牛は天神の神使(※4)とされ天満宮では「御神牛」(=聖牛)として崇められ、天満宮は牛天神(※2−2)と呼ばれたりもします。牛の像が寝そべってる様に見えるのは道真の埋葬地を啓示した伏臥牛の姿なのです。右の写真は道明寺天満宮の伏臥牛像です。
北東の方角は十二支の方位では丑寅(=艮、※5)で当時流行した陰陽道(※5−1)では鬼門(※5−2)とされますので、私は寧ろ安楽寺を都府楼の「鬼門封じ」(※5−3)にしたと考えますが、安楽寺はその後長らく神仏習合の神宮寺(※6、※6−1)として神社を併せ持って存続、明治の神仏分離で太宰府神社として独立し戦後に現在の太宰府天満宮(※3−2)という名称に成りました。現在の社殿は1591(天正19)年の造営で重文。
(2)道真配流の経緯
菅原道真配流の経緯(いきさつ)は天満宮側の資料や通説に従えば凡そ次の様な内容です。
埴輪製作の土師氏(※2−3)から分家した菅原氏は中央の有力家では無いので、宇多天皇(※7)の贔屓で右大臣に迄出世した道真が周囲の妬みを買ったのは事実です。これを利用し道真失脚を画策したのが藤原氏に依る摂関及び外戚の独占を狙う左大臣藤原時平(※8)です。権力中枢の時平派は「止足の分を知らず、専権の心有り」との告発 −天満宮側は讒言、即ち”偽りの進言”とする− を醍醐天皇(※7−1)へ上申し(△3のp111〜114)、遂に醍醐治下4年目の901(昌泰4)年に先ず1月7日に道真の官位を正三位から従二位に一旦昇格して置いて、1月25日に”宇多上皇の抗議”を押し切って道真の大宰府権帥への左遷を決議決定し、道真の後釜に源光を据えました。権帥(ごんのそち)は今風に言えば九州地区の副長官(※3)に相当しますが、詰まる所は帥(そつ)たる長官に”監督される立場”です。妻と年長の娘は”人質”として京に留め置かれ、一家離散、家来も左降、大宰府への道中は「食馬を給する事勿れ」という厳しいもので(△3のp114)、後に「昌泰の変」と呼ばれます。因みに飛梅伝説(※2−4)で有名な「東風吹かば」の歌は大宰府に出立の折に道真が詠んだとされて居ます。
そして配流から約半年後に醍醐政権は901年7月15日に「昌泰」から「延喜」に改元し、道真追放を以て政治刷新が完了したことを天下に公知したのです。それは901年の干支が辛酉(かのととり、しんゆう)で「辛酉の年には天変地異や変乱が起こり易い」という古代中国伝来の辛酉革命説に基づき、道真をその”変乱の元凶”と見做し逆臣を追放し革命(=運命を変革、※9)する為に改元したという論理です。
■天神信仰の成立と広がり − 北野天満宮の起源
北野天満宮の地図は▼下▼を参照して下さい。
地図−日本・京都市洛西(Map of West of Kyoto city, Kyoto -Japan-)
(1)中世の陰陽道と道真の怨霊の祟り
それでは次に道真が「神」に昇格したのは何故か?、を述べましょう。道真の死後、京では不可思議な変事が続けて起こったのです。先ず道真が身罷ったその年に
903(延喜3)年 2月25日、菅原道真逝去(享年59歳)
903(延喜3)年 夏、近畿に大雨と落雷、そして疫病と飢饉が流行
し、前述の如く更に905(延喜5)年に大宰府安楽寺に廟を建て弔ったにも拘わらず、その後も
906(延喜6)年 藤原定国死去(享年39歳)<告発に加担>
907(延喜7)年 初夏に清涼殿に落雷
908(延喜8)年 藤原菅根死去(享年54歳)<宇多上皇を阻止>
909(延喜9)年 藤原時平死去(享年39歳)<本命>
の様に時平派人脈が次々と”狙い撃ち”されたかの如くに逝くと、道真の「怨霊」(※10)、「御霊(ごりょう)」(※10−1)、「祟り」(※10−2)などの噂 −怨霊・御霊は「祟り」という報復概念と一体化してるのが特徴− が広まりました。平安中期は陰陽道(※5−1)が貴族の間に流行し「穢れ」や「祟り」を極端に恐れる怨霊思想が流行した時期でした。
暫くの小康の後
923(延喜23)年 保明親王薨去(享年21歳)
と成りました。保明親王は時平が強引に立太子させた醍醐天皇の皇子(母は時平の妹)で、これは最早只事では無いと成り、藤原家を継いだ時平の弟・藤原忠平(※8−1)(→後で詳述)が「怨霊」を封じる為に道真の霊を鎮める事を上奏し、923(延喜23)年4月20日に醍醐天皇が「昌泰4年正月25日の宣命を棄て去り、これを焼却すべし。」という詔を発するに至り(△3のp119)、同年10月20日には道真の本官(=右大臣)を復し正二位を追贈し、「延喜」は”縁起が悪い”と思ったか「延長」に改元したのです(←923年は奇しくも道真の死から20年目)。
この様な道真の政敵(=醍醐・時平派)の相次ぐ死で貴族たちは大いに慄いたことでしょうが、しかし民衆にとっては”雲の上”の話で民衆は度々の落雷や疫病や飢饉の方に大きな不安を感じて居た筈です。ところが遂に
930(延長8)年6月26日 落雷が清涼殿を直撃
(清涼殿では参議中で、藤原清貫・平希世らが死去)
したのです。醍醐天皇はそのショックで病臥し同年9月22日に僅か7歳の寛明親王に譲位するや直後の9月29日に崩御して仕舞いました。下が鎌倉初期に描かれた『北野天神縁起絵巻』(北野天満宮所蔵で国宝、※11)の清涼殿落雷の図ですが中央で大暴れする雷公の姿格好(→これについては後述)が面白いですね。
宮中が落雷に直撃され天皇が死んだ!、これでパニック状態に陥った民衆 −先の大戦で大空襲や原爆でも天皇は無事だった事を思い合わせて下さい− の間に”道真[の怨霊]の祟り”の噂は一挙に浸透し人々は「クワバラ」なる呪文(→その意味は後で詳述)を唱えるしか術が無かったのです。
寛明親王は朱雀天皇として皇位を継承するも治世中に
936(承平6)〜941(天慶4)年 承平天慶の乱(※12)
(平将門の乱は940年に平定、藤原純友の乱は941年に平定)
が起き世の中は国家分裂・転覆の寸前に迄至りましたが、ここで注目すべきは平将門を「新皇」にする位記(※13)を道真の霊魂が捧げると巫女が宣ったとする『将門記』の記述です(△4のp144)。
更には金峰山修験僧の道賢が道真の霊に導かれ地獄で醍醐天皇に逢ったとの話(『道賢上人冥途記』)は941(天慶4)年の事とされて居ます。天皇が地獄に堕ちるとは凄い話ですが、「朝廷の権威」の失墜が見て取れます。又、945(天慶8)年には志多良神(※14)の神輿を担いだ”群衆”が巫女に導かれて筑紫から上京し石清水八幡に到着する(△4のp70)など、最早民衆が浮き足立って居た事が解ります。
(2)道真の神格化と北野天満宮の創祀
この様な不穏な状況の中で、朱雀天皇は946(天慶9)年に23歳で退位しました(→30歳で薨去)。代わって立った弟の村上天皇(当時20歳)は「民衆の不安」を打ち消し「朝廷の権威」を建て直す為に翌947年4月に「天暦」と改元し、「道真の怨霊」を「神」として祭り上げ怒りを慰撫し”祟り”を鎮める為の社を同年6月9日に京の北野に創建しました。北野奉祀には実は942(天慶5)年に多治比文子という巫女に道真の霊が憑依し「右近の馬場」(=北野の地こと)に祀れと託宣したという逸話が在りますが、何れにせよこれが北野天満宮の起源(※11−1)で、初期の目的は道真の「怨霊封じ」即ち北野天満宮は御霊信仰に基づいた御霊神社(※10−3、※10−4)の一つです。
[ちょっと一言] 「神憑りした巫女」や「死者の霊」が登場し民衆が”群集(=烏合の衆)”に化し行進や舞踏する現象は、日本の念仏踊(※15)や「ええじゃないか」(※15−1)やヨーロッパ十字軍時代の「死の舞踏」などに共通して見出され、それ迄の社会のパラダイム(枠組み)が崩壊する時に顕現する集団ヒステリーの一種です。崩壊しつつ在るこの時代のパラダイムとは律令制や荘園制で、醍醐天皇は旧体制維持の為に荘園整理令を数度発令して居ます。
ところで、北野の地にはそれ以前から火雷神(※16)を祀る祠が存在 −境内説明板に拠れば雨を降らせ五穀豊穣を齎す農耕神で「北野雷公」と呼ばれ、皮肉にも道真の政敵の時平の父・基経(※8−2)が880年頃に祭事を行ったとのこと− し、”道真[の怨霊]の祟り”は雷に象徴されて居たので土地の政敵側の火雷神と習合させ和合を図ったのです。基経こそは887(仁和3)年に阿衡の紛議を起こし、道真が宇多天皇から事態収拾と以後の”対藤原家の防波堤”として中央に駆り出される切っ掛けを作り「昌泰の変」の遠因を成した人物だからです。それは又、平将門などの反体制側に担ぎ出された道真[の怨霊]を体制側に組み入れる狙いをも併せ持つものでした。これは実に考えられた策と言う他無く、藤原家頭領の忠平の深謀(←忠平は基経の四男)には唯々感心させらるばかりです。
こうして道真は
怒ると天から雷を落とす神 → 天神(てんじん)
として神格化され天神信仰が成立しましたが、土地の神との習合に依って天神(てんじん)は雷の「荒ぶる神」(=祟り神)と農耕の「利生の神」との二面性を具有しました。そして恐らくこの時に道真に「天満大自在天神」なる神号が諡(おくりな)されたと考えられますが、この神号には重大な秘密が隠されて居たのですが、それは「考察1」の章に譲ります。
(3)北野天満宮の中核化と道真の伝説化 − 北野天神縁起
その後、959(天徳3)年に忠平の子・師輔(※8−3)が社殿を大増築し、987(永延元)年に初めての勅祭が執り行われた際に一条天皇から「北野天満宮天神」の名(←道真の神号「天満大自在天神」に由来)を賜り「天満宮」と名乗る事が公認されたのです。
更に993(正暦4)年には道真に正一位太政大臣が”追々贈”されて居ますので余程祟りが怖かったのでしょう。しかし尚も翌994(正暦5)年に疫病が流行したので6月に除疫の御霊会(※10−5)を北野船岡で行い更に1046(永承元)年8月15日にも御霊会を催し、これが現在8月4日の例大祭(=北野御霊会)の原形です。
その後、北野天満宮は1039(長暦3)年制定の二十二社(※17)に列せられ京畿の主要神社と成り、特に1587(天正15)年の秀吉の大茶会は有名で現在の社殿は秀吉の遺命に依り秀頼が1607(慶長12)年に造営したもので国宝です(△5)。境内西隣には秀吉が築いた御土居の跡が残って居ます。
こうして京の北野天満宮は”権力の御膝元”という「地の利」から天神信仰の中核的存在に成って行き、鎌倉時代には『北野天神縁起絵巻』に依って「伝説化された道真像」が広く定着しました。
(4)「荒ぶる神」から「学問の神」へ − 天神信仰の広がり
時を経て「荒ぶる神」の怒りも徐々に解け、江戸時代には浄瑠璃の『天神記』(近松門左衛門作)や『菅原伝授手習鑑』(並木宗輔・2世竹田出雲らの合作) −後に歌舞伎化されたヒット作− などが盛んに上演され更に寺子屋の普及に伴って文章博士で学問の人であった道真に因み、「祟り神」から「手習いの神」を経て「学問の神」に変貌を遂げた天神様は津々浦々に勧請され天神信仰は全国に拡散しました。中核の北野は明治の神社統制で北野神社と改名させられ再び北野天満宮に復したのは戦後です。
(5)本社創建以前の神を祀る北野の境内摂社
北野天満宮の最後に、北野の地に天満宮創建(947年)以前から座(いま)した神を祀る重要な境内摂社を2社ご紹介して置きます。1社は前出の火雷神「北野雷公」が祀られて居る境内摂社の火之御子社(右の写真)で、毎年6月1日午前4時に「火鑽式(ひきりしき)」という雷除けの祭事が催されます。北野天満宮の由緒に関わる重要な摂社ですが殆どの参拝客は気付かずに通り過ぎて行きます。
2社目は道真が生まれる以前の836(承和3)年 −838(承和5)年の遣唐使派遣の2年前− に桓武天皇が遣唐使の為に天神地祇を合祀したのが創祀の地主神社 −朱塗り社殿で境内第一の摂社− に名残を留めて居ます。道真は894(寛平6)年に遣唐大使に任命されるも唐末の混乱を理由に遣唐使中止を建議しましたので、地主神社に「遣唐使の因縁」が封じ込められている様です。
この遣唐使中止建議から13年後の907(延喜7)年に唐は滅亡して居ますので道真に「先見の明」が有ったと言えます。以後日本には国風文化(※18)が生まれ育ち約100年後には『源氏物語』の頂点に達しましたので、「昌泰の変」を挟む西暦900年前後は漢風尊重から「和魂漢才」(※19)への大きなターニング・ポイントだったと言えます。
{この境内摂社の節は09年1月11日に追加}
■七本松の奇瑞 − 大阪天満宮の起源
太宰府、北野の天満宮の起源を述べた序でに大阪天満宮について触れて置きます。道真は大宰府に赴く前に摂津中島の大将軍社(※20、※20−1)に参詣したそうですが、死後46年後の949(天暦3)年の或る夜に大将軍社の前に突然7本の松が生え夜毎に梢は金色の霊光を放ったと言われます。これを聞いた村上天皇は菅公に縁の奇端として同地に勅命を以て菅公を祀ったのが大阪天満宮の起源とのことです(△6)。その後、1837(天保8)年の大塩平八郎の乱で全焼し現在の社殿は1843(天保14)年に再建されました。大将軍社は今は摂社として祀られて居ます。
尚、7月25日の天神祭は大阪の夏を代表する祭ですので是非▼下▼からご覧下さい。菅原道真の天神と所縁の深い梅鉢紋・牛・聖数25などについて豆知識として纏めて在ります。
大阪天満宮の天神祭船渡御(The Tenjin boating-festival of Tenmangu, Osaka)
■雷考 − 神鳴(かみなり)
(1)くわばら(クワバラ)とは
さて、現在では何か忌まわしい事態、つまり何かヤバイ事を避ける時の呪文として私などは思わず「クワバラ、クワバラ」と連発して仕舞いますが、最近の若い人は言うんでしょうか?、余り聞きませんね最近は。「クワバラ」とは何か、広辞苑を引くと、「桑原(くわばら)」について
[1].桑の樹を植え付けた畑。桑田。
[2].[a].雷鳴の時、落雷を避ける呪文として用いる語。又、一般に忌わしい事を避ける為にも言う。
[b].雷神が誤って農家の井戸に落ちた時、農夫は蓋をして天に帰らせなかった。雷神は、自分は桑樹を嫌うから、「桑原桑原」と唱えるならば再び落ちまいと答えたとの伝説に基づくと言う。
[c].又、死して雷と成ったと伝える菅公の領地桑原には古来落雷した例が無いのに因むとも言う。
狂、雷「アア、――」。
と出て居ますので、私が幼少の頃に教えられた通りですね。
(2)「神が鳴る」から雷(かみなり)
私が子供の頃は雷のことを雷様とか雷公とか言い「雷様に臍を取られる」などと親から言われ随分怖かったですね。あれは雷神(※16)のことを言ってるのですが、再び広辞苑で「雷(かみなり)」を引くと、[1]の通常の科学的記述を省略すると
(神鳴(かみなり)の意)
[2].雷神。雲の上に居て、虎の皮の褌(ふんどし)を締め太鼓を打ち、臍を取ると言う。雷様。かみ。鳴る神。季語は夏 。狂、雷「身共は―じやいやい」。
[3].(雷の様に)口喧しく責めること。がみがみ言うこと。又、その人。「―を落す」。
と在り、前出の『北野天神縁起絵巻』の雷公はこの記述通りの格好をして居ました。又、雷を「いかずち」とも読み「厳(いか)つ霊(ち)」の意味とも出て居ます。雷(かみなり)の訓は元々は「神が鳴る」という意味の「神鳴(かみなり)」から来ているんですね、即ち八百万の神を信ずる日本人は古代から雷に「神の怒り」の峻厳な霊威を感じ取って居たのです(←この事は2003年の年頭所感で既に言及しました)。京の人々が度重なる落雷を”道真[の怨霊]の祟り”と感じたのも充分に頷け、前述の如く930(延長8)年の落雷で醍醐天皇が崩御した事で不安が頂点に達し呪文に縋る契機を成したと私は考えて居ます。
雷神は中国では「天帝の属神」(※16)と考えられ日本の雷神の姿も中国伝来のものですが、やはり臍を取るんですね。ところで俵屋宗達の有名な『風神雷神図屏風』 −浅草の雷門(正式名:風雷神門)の様に雷神は風神(※16−1)と対で登場することが多い− は中々滑稽で好きですが、あの中の雷神は男の筈なのに皺くちゃオッパイ垂らして自ら出臍を出してまっせ!
序でに述べると、中国文化圏では雷の稲妻の形象を龍(竜)に見立て龍神(※16−2)が雷雲を呼び雨を降らすと考えられて、日本の雨乞いの祠には良く龍神が祀られて居ますので、雷神は龍神とも関係が深いと言えます。
さて話を「くわばら(クワバラ)」に戻すと、桑原は菅公の領地でそこには菅公の祟りである雷が落ちたことが無い(←自分の領地に祟る馬鹿は居ない!)ので、落雷を避ける為に「桑原桑原」の呪文を唱えるのが有効、という話の筋に行き着きます。ではその領地「桑原」とは何処か?、と言うと其処はどうやら現在の京都市右京区桑原町の様です。桑原の地名が残って居るのは大変結構!
(3)「地震、雷、火事、??」
私は若き頃に立山剣岳の這松しか生えて無い岩場で天候が急変し、山の下方から段々と競り上がる様に襲って来た雷を間近に受けた経験が有るので今でも雷が怖いのです。そして怖いものとして昔から「地震、雷、火事、親父」と言い習わされて来ましたが、今や「怖い親父」「頑固親父」「雷親父」は絶滅の危機に瀕し、世間は”優形パパ”ばかりに成って仕舞い「地震、雷、火事、??」という状況です。今の子供は「??」の部分を教育ママと思うかも知れませんね。私は「雷親父」が死語化し父性原理が後退した事と、若い世代のニートや”後ろ向きの精神病”蔓延との間には大いに相関関係が有ると考えて居ますが、菅公には「学問の神様」よりも「雷親父の祟り神」として遣る気の無い”後ろ向きの若者”にドカンと落雷して欲しいと願って居ますよ、ブオッホッホッホ!!
(*_@)
{この章は09年1月11日に追加、2012年9月30日に最終更新}
■考察1 − インドのシヴァ神を組み込んだ天神信仰
ところで菅公の神号「天満大自在天神」は『北野天神縁起絵巻』や『菅家伝』などの天満宮側の資料に出て来ます −朝廷に贈諡されたとする− が、ここで愈々その意味を解明します。すると天神信仰の本質が見えて来るのですが、そこには「あっと驚く」秘密が隠されて居るのです。
++++ 道真とシヴァ神の重ね合わせ ++++
先ず「天満」とは道真が配所の大宰府の山上(←後の天拝山)で毎日天に無実を訴えたという謂れに由来します(△3のp58)ので、「天満」とは「無実が思いが天を満たす」という程の意味でしょう。
ところが不思議なのは、それに続く「大自在天」(※21)なのです。大自在天とは広辞苑を引けば、仏教の聖人の一人で元はインドのシヴァ神(※21−1)と出て居ます。シヴァはヒンドゥー教徒(※21−2〜※21−5)に深く信仰されて居る「破壊と創造の神」で、この二面性は雨季と乾季を繰り返す熱帯型モンスーンの神格化(※22、△7のp36)であり、雨季の大豪雨や雷雨は時として洪水を引き起こし人々の生活を破壊しますが、一方では熱帯の旱魃を潤し穀類や牧草を繁殖させて人々に恩恵を齎します。創造から派生してシヴァは舞踊の創始者でもあります。
この二面性の支配は「ナイルの賜」のエジプトも同様です。そして前述した天神(てんじん)の「陰陽道的祟り」と「農耕の利生」の二面性ともピタリと一致します。更にシヴァは聖牛(=白の牡牛ナンディン)に乗って移動する神で、道真の神使の神牛と同じ関係です。即ち「道真とシヴァ神」が、そして「神牛とナンディン」が見事に重ね合わせられて居るのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
こう見て来ると、「天満大自在天神」の神号を贈った人たちは、インドのシヴァ神の事蹟を充分知った上で(←知らないとこんな名称は思い付きません!)、神仏混淆思想と陰陽道に仮託して道真とシヴァ神を重ね合わせ巧妙に天神信仰を創り上げたことが解ります。つまり
天神信仰とは中国伝来の仏教を媒介にして、日本の怨霊思想の中に
インドのシヴァ神を”意図的”に組み込み創作したもの
と言うことが出来ます(△7のp49)。これを図式に整理すると
<インドのシヴァ神> 組み込み <天神=菅原道真>
暴風雨と雷の破壊神 ─[荒ぶる神]→ 雷の祟り神
農耕起源の創造神 ─[利生の神]→ 農耕神
(舞踊の神 ─[学芸の神]→ 学問・詩歌の神)
聖牛ナンディン ──[聖獣]─→ 神牛(伏臥牛)
という対応関係に纏めることが出来ます。
すると天神の神牛もシヴァ神の話から後で作ったもの、大宰府の安楽寺は初めから都府楼の「鬼門封じ」が第一目的、北野天満宮はシヴァ神を組み込んだ天神信仰創作の完成が最終目的だった事が浮かび上がって来ます。そして「鬼門」という方位感覚も怨霊思想も平安時代に[特に貴族の間で]流行した陰陽道の産物(※5−1)だ、ということも時代の反映として留意すべきです。
尚、神の性格の二面性については「考察2」の章で付言します。
◆シヴァ神の組み込みを考えた人
947年の北野天満宮創建時に「天満大自在天神」の神号が朝廷から贈諡されたとすると村上天皇の名が浮かびます −勿論天皇の名で贈諡された筈です− が、この様な頭の良い操作を考案出来るのは藤原忠平を置いて他に無いと私は考えて居ます。忠平は有徳有能で人望の有る人物とされて居ます。そもそも923年に醍醐天皇が道真左遷の宣命を破棄し官位を復す切っ掛けは忠平の上奏で、道真の政敵・時平の弟であり乍ら時平と反りが合わず宇多天皇の側近として35歳年長の道真と親交を重ね、北野天満宮に親子で寄進した忠平なればこそ出来るのです。道真[の怨霊]も忠平には祟ること無く、忠平は北野天満宮創建2年後の949(天暦3)年に69歳の長寿を全うして生涯を閉じました。
道真と忠平の歌は『小倉百人一首』の24番歌と26番歌にそれぞれ採用されて居ますので、興味有る方は参照して下さい。両者は図らずも「紅葉」を詠んで居ます。
{この章は09年1月8日に追加し1月14日に推敲終了}
■牛に所縁深い他の神社 − 牛頭天王を祀る八坂系神社
さて皆さん、天満宮以外に祭神が牛に所縁深い神社をご存知でしょうか?
京都の八坂神社(明治以前は祇園社、※23)とその系列社がそれで、全国に約3千社在ります。八坂神社の主祭神は素戔嗚尊(※24)ですが、八坂系神社の素戔嗚尊は純粋な出雲神話の神では無く朝鮮半島との関連が強いのです。そもそも「八坂」の名と神社創祀は、斉明天皇2年の656年に朝鮮半島から渡来した伊利之使主(いりしおみ)が、新羅牛頭山の須佐之男神(=素戔嗚尊)を勧請し祭事を行い山城国愛宕郡八坂郷の地と八坂造(やさかのみやつこ)の姓を賜ったのに始まるとされています(『八坂郷鎮座大神記』、△8)。又、『日本書紀』一書には暴虐に因り高天原を追放された素戔嗚尊は子の五十猛命(※24−1)を連れ新羅の曾尸茂梨(ソシモリ、※24−2)に降ったが泥舟で日本に戻り五十猛命は樹種を諸国に播いたと在り(△9のp100)、更には「牛頭」は韓語「ソシモリ」の訳とする説も在り、何れにしても八坂の地には渡来人が住み祇園社は彼等に尊崇されて来ました(△10のp486)。
更に中世の仏教思想の影響を受けて「素戔嗚尊は仮の姿で実はインドの牛頭天王こそが御本尊」(※25)とされて来ました。これを本地垂迹説(※6−2)と言い、つまりは「本地(=仏や菩薩)が姿を変えて迹(あと)を垂れて現れ出たのが神道の神である」とする「仏主神従」の考え方で、素戔嗚尊に関しては
<本地(仏や菩薩)> 垂迹 <顕現する仮の姿>
牛頭天王 ─→ 素戔嗚尊
婆利采女(天王の妃) ─→ 奇稲田姫命
八王子(天王と妃の8人の子) ─→ 八柱御子神
という図式が成り立ちます(△10のp333)。「祇園」と言うと舞妓はんや芸子はんの居る花街を直ぐ思い浮かべますが、そもそも「祇園」なる地名は牛頭天王がインドの祇園精舎の守り神である事に由来した名称です(※25、※25−1)。九州の博多にも「祇園」が在り、ここも祇園山笠で有名な櫛田神社(※26)の祭神の奇稲田姫命(※24−3)と素戔嗚尊への本地垂迹が地名起源です。
以上の様に八坂神社の祭神は中々複雑ですが、名前の如く牛頭天王は「牛の頭を持ち忿怒相」をして居ます。有名な祇園祭(※23−1)は祇園御霊会(※10−5)とも言われる夏の除疫の御霊会で、869(貞観11)年に京の各地に疫病が流行した際に八坂の地で疫神祭(※27)を行い除疫神である牛頭天王を神泉苑(※28)に送り御霊会を催したのが起源で、当時は疫病は非業の死を遂げた怨霊の祟りが原因とされ神泉苑では御霊会が度々開かれて居ましたが、これも陰陽道の産物(※5−1)です。
その他に愛知県津島市の津島神社系や天王さんなどと呼ばれる小さな神社も牛頭天王を祀る神社で、「天王町」という地名には牛頭天王を祀る神社が在る確率が高いですね。
■考察2 − 神の性格の二面性について
しかし、期せずして祇園祭も北野御霊会と並び称される御霊会で、期せずして素戔嗚尊も中央では「荒ぶる神」ですが出雲では「守り神」という二面性を具有(※24)して居ることが解り面白いですね。二重人格では無い普通の人間にも多かれ少なかれこうした二面性は有る訳で、そもそも「神」という概念は人間が創り出したものですから「神の性格の二面性は我々人間の二面性の反映である」と我々人間は知るべきだ、と私は思って居ます。
{この章は09年1月11日に追加}
■丑年に聖牛詣でかビーフステーキか
以上、丑年に因み「牛が居る神社」や「牛に所縁深い神社」を話題にしましたが、何れもインドに行き着いて仕舞いました。それもその筈ですね、牛は元々は日本に居なかった動物 −『魏志倭人伝』は「その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」と伝える− でインドの聖獣ですから。
牛の像が在る天満宮は今では「学問の神様」としてすっかり定着し受験生やその親たちの”現世利益の神頼み”で大いに賑わって居ますが、これは「社寺の御利益は玉串料や御布施や御賽銭の多少に比例する」という”カネ万能説”の御蔭ですね。この説は社寺側が仕掛けたのか、はた又民衆の”藁掴み”の心境に発するのか定かでは有りませんが、神社側の説では「天神の使いの御神牛の頭部を撫で摩れば頭が良く成る」そうです(△2)ので、丑年の今年は天満宮の聖牛に肖(あやか)る事をお薦めします。但し、効果無き場合でも当方は一切の責任を負いません。その場合は当方を恨まず、「自分の頭」を撫で摩り或いは叩いて、菅公に肖って”お勉強”に励むのが本道です。しかし、余り”お勉強”し過ぎると道真の様にコチコチの堅物に成る恐れも有りますので何事も程々の「中庸の精神」が肝心ですゾ!
又、牛頭天王を祀る神社を詣でるのも宜しかろうと思います。忿怒顔をドバッと見たい方は大阪の難波八阪神社を御参りして下さい、迫力有りまっせ!
(-_-)
_A_
私は過去に亥年に猪の肉を食う事を宣言しましたが、同じ発想で丑年に天満宮や牛頭天王を祀る神社の真ん前でビーフステーキをたらふく食うのも悪く無いですな。「花より団子、神頼みより腹拵え」という方にお薦めです。おっとっとっと、これは「祟り神」の天神さんや「怖い顔」の天王さんの真ん前で迂闊な発言、クワバラ、クワバラ!!
■年頭のご挨拶 − 実に徹し思考を反芻しゆっくり進もう
しかし何ですな、学問をした頭の宜しい[筈の]方々が作った「システム」とか呼ばれる仕組みが、昨年はアメリカ −アメリカはシステム最先進国− で破綻したのを切っ掛けに世界の各所で総崩れして、今年初っ端から世界的な経済危機に陥って居る訳ですから、世の中「一寸先は闇」ですね。これは頭の宜しい[筈の]方々がカネ万能の拝金主義に嵌まりマネーゲームの虚(きょ)に走った結果で、自業自得と言えます。私が昨年の年頭所感で警告した「袋の鼠」とは正にこの事を指すのです。本文で平安末期は旧パラダイムが崩壊した時期と記しました −事実、貴族に代わり武士が天下を動かす鎌倉時代が次に現出した− が、私は昨年の経済破綻はパラダイム変革(=世界の枠組みの変革)の兆候の様な気がして為りません。一国覇権主義を推進した共和党ブッシュから協調主義を唱える民主党オバマへの政権交代も、その動きの一つであろうと思って居ます。この事の詳細は別のページに譲るとして、例年通り今年の生き方を提示しましょう。
今年は牛の様に大地を踏み締め、実(じつ)に徹し確と考えを反芻し乍ら進むべきです。今年は我慢の年なのです。昨年も言いましたが、不景気の真っ最中の今は急ぐ必要は全く無いのです、ゆっくりと着実な歩みが必要な時です。
年初から経済難民のハングリーな人たちが大量に現れ公園の炊き出しで飯を食って居る折、決まり文句の「皆様の御多幸」が余り期待出来ない今年は健康第一、失ったハングリー精神を取り戻す良い機会かも知れません。それでは皆さん、お達者でーー〜!!
【脚注】
※1:天満宮(てんまんぐう)は、天満天神(菅原道真)を祀った神社の宮号。北野天満宮・太宰府天満宮・大阪天満宮など全国各地に在る。
※2:菅原道真(すがわらのみちざね)は、平安前期の貴族・学者。是善の子(845〜903)。宇多天皇に仕えて信任を受け、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任、894年(寛平6)遣唐使に任ぜられたが、その廃止を建議。醍醐天皇の時、右大臣と成ったが、901年(延喜1)藤原時平の讒言に因り大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、配所に没。書を良くし、三聖の一。「類聚国史」を編し、「三代実録」の撰に参与。詩文は「菅家文草」「菅家後集」に所収。死後、種々の怪異が現れた為に御霊(ごりょう)が天神様として北野天満宮に祀られ、後に学問の神として尊崇される。菅公(かんこう)。菅丞相(かんしょうじょう)。菅家(かんけ)。
※2−1:天神(てんしん/てんじん)とは、
[1].(濁らず「テンシン」)
[a].(元々は中国で天界に住む神を言い)天の神。←→地神。
[b].(記紀神話に転用されて)天津神(あまつかみ)、天孫系の神。←→地祇、国津神。
[2].〔仏〕天界に住して仏法を守護する神。天。諸天。
[3].(濁って「テンジン」)菅原道真の神号。道真を火雷天神とする信仰が起り、後に京都に北野天神が創建された。又、道真を祀った神社(天満宮)。
※2−2:牛天神(うしてんじん)とは、(牛は天神の使いであるという俗説から)天満宮の異称。
※2−3:土師部(はじべ、はにしべ)は古代、大和朝廷に土師器を貢納した品部。北九州から関東地方迄各地に分布。埴輪の製作、葬儀にも従事。
土師氏は、天穂日命を祖とし埴輪の制を作った野見宿禰が「相撲(角力)の祖」と成り土師姓を賜わったことに始まる。土師氏からは菅原氏(道真など)、大江氏(広元など)が出て文章道(もんじょうどう)の名家に成る。菅原氏からは高辻氏、五条氏(代々相撲の司家)、清岡氏、桑原氏、前田氏(利家など)が派生。大江氏(初めは大枝と書いた)からは秋篠氏、中原氏、毛利氏(元就など)、長井氏、上田氏、北大路氏などが派生して居る。
※2−4:飛梅(とびうめ)とは、[1].菅原道真が大宰府に左遷されて家を出る時
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ
と詠んだ梅の木が道真の配所筑紫迄飛んでその庭に生え匂ったという故事。
[2].安楽寺(太宰府天満宮)の庭に在る、[1]の伝説に基づく梅の木。
※3:大宰府(おおみこともちのつかさ、だざいふ)とは、律令制で、筑前国筑紫郡に置かれた役所の名。九州及び壱岐・対馬の2島を管轄し、兼ねて外寇を防ぎ、外交の事を宰(つかさど)った。長官を帥(そつ)と言い、その下に権帥・大弐・少弐・大監・少監・大典・少典などが置かれ、別に祭祀を司る主神(かんづかさ)などが在る。福岡県太宰府市にその遺跡が在り、正庁であった都府楼の礎石などが残って居る。鎮西府(ちんぜいふ)。
※3−1:都府楼(とふろう)とは、筑前国に在った大宰府の庁舎の別名。
※3−2:太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、太宰府市宰府に在る元官幣中社。祭神は菅原道真。道真を葬った安楽寺の跡。寺は905年醍醐天皇の勅に依り墓所に殿舎造営が行われ、919年完成。明治の神仏分離で神社として独立、現在は「学問の神」として信仰を集める。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※4:神使(しんし/かみのつかい)とは、[1].神の使い。多くはその神に縁故の有る鳥獣・虫魚を言う。使わしめ。神社に付属して、その使と成る例としては、天神の牛/日吉の猿/稲荷の狐/八幡の鳩/春日の鹿/熊野の八咫烏/大黒天の鼠の類。
[2].(かみのつかい)神社に遣わされる勅使・奉幣使。夫木和歌抄27「たれもみなそのうまやどに馬はあれど―にかちよりぞ行く」。
※5:丑寅・艮(うしとら)は、十二支で表した方位で、丑と寅の間。北東の方角。東北。鬼門とされる。
※5−1:陰陽道(おんみょうどう)とは、古代中国の陰陽五行説に基づいて天文・暦数・卜筮・卜地などを扱う方術。大宝令に規定が在り、陰陽寮が置かれたが、次第に俗信化し、宮廷・公家の日常を物忌・方違えなどの禁忌で左右した。平安中期以後、賀茂・安倍の両氏が分掌。
※5−2:鬼門(きもん、demon's gate)とは、[1].陰陽道で、鬼が出入りするという万事に忌み嫌う方角で、艮(うしとら)即ち東北の称。鬼方。平家物語3「叡岳も帝都の―にそばたちて」。←→裏鬼門。
[2].一般に、陸(ろく)な事が無くて行くのが嫌な場所。又、苦手とする相手・事柄。浄、新版歌祭文「意地くね悪う―の肝先」。
※5−3:鬼門封じ(きもんふうじ)/鬼門除け(きもんよけ)とは、災難を避ける為に鬼門の方角に神仏を祀ったり祈祷したりすること。丑寅除け。
※6:神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本固有の神の信仰と仏教信仰とを折衷して融合調和すること。奈良時代に始まり、神宮寺・本地垂迹説などはその現れ。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈の運動に因って衰えた。神仏混淆。
※6−1:神宮寺(じんぐうじ/かみのみやでら)とは、神仏混淆の表れとして、神社に付属して置かれた寺院の称。明治維新以後神仏分離に拠って廃絶或いは独立。宮寺。神供寺。神護寺。神宮院。別当寺。謡曲「道明寺」に「神仏一如なる寺の名の...曇らぬ神の宮寺ぞたふとき」と在る。
※6−2:本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)とは、日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済の為に姿を変えて迹(あと)を垂れたものだとする、「仏主神従」の神仏同体説。奈良時代に始まり平安時代に広まり、鎌倉時代に神仏習合を支える理論として体系が完成、明治初期の神仏分離に因り衰えた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※7:宇多天皇(うだてんのう)は、平安前期の天皇(867〜931、在位887〜897)。光孝天皇の第7皇子。名は定省(さだみ)。菅原道真を挙用、藤原氏を押さえて政治を刷新。897年(寛平9)譲位後、寛平法皇と言う。亭子院(ていじのいん)の帝。「寛平遺誡」は皇子(醍醐天皇)の為に記されたもの。
※7−1:醍醐天皇(だいごてんのう)は、平安前期の天皇(885〜930、在位897〜930)。宇多天皇の第1皇子。名は敦仁(あつぎみ)。後山科帝・小野帝とも。藤原時平・菅原道真らの補佐の下に国を治め、後世延喜の治と称される。「古今和歌集」を勅撰。
※8:藤原時平(ふじわらのときひら)は、平安前期の貴族(871〜909)。基経の長子。宇多・醍醐両天皇に仕え、累進して左大臣。天皇の信任厚い菅原道真を大宰権帥に左遷し、政界に於ける藤原氏の地位を確立。「延喜格式」「三代実録」を撰上。その死は道真の祟(たたり)に因るという説が流布した。
※8−1:藤原忠平(ふじわらのただひら)は、平安中期の貴族(880〜949)。基経の子。醍醐天皇の時代の左大臣。兄時平の後を継いで延喜格式を撰上。朱雀天皇の時、摂政関白・太政大臣。時平・仲平と共に三平と称した。貞信公と諡(おくりな)し、日記「貞信公記」が在る。
※8−2:藤原基経(ふじわらのもとつね)は、平安前期の貴族(836〜891)。長良の子。叔父良房の養子として後を継ぐ。陽成天皇の摂政と成ったが天皇を廃し、光孝天皇を立てて政務を代行、宇多天皇が即位すると阿衡の紛議を起し、初めて関白と成る。「文徳実録」を撰。世に堀河大臣と称。昭宣公と諡(おくりな)す。
※8−3:藤原師輔(ふじわらのもろすけ)は、平安中期の貴族(908〜960)。忠平の子。通称、九条殿。子の兼通・兼家、孫の道長が関白を継承し、摂関家の祖となる。著「九条年中行事」、日記「九暦」など。
※9:革命(かくめい)には、通常使われる権力奪取の意味の他に以下の意味が有ります。
[1].[易経革卦「湯武革命、順乎天而応乎人」]天命が革(あらた)まること。天命を受けた有徳者が暴君に代って天子と成ること。易姓革命。
[2].辛酉(しんゆう)の年の称。讖緯説・陰陽道で、この年に変乱が多いと言い、日本では改元してそれを避けるのが慣例であった。
※10:怨霊(おんりょう、vengeful ghost)とは、怨みを抱いて祟りをする死霊、又は生霊(いきりょう)。→御霊(ごりょう)は死霊に対して言う。
※10−1:御霊(ごりょう)とは、[1].霊魂の尊敬語。後に、尋常で無い祟りを現す「みたま」(=死者の霊魂)について言った。保元物語「これ讃岐院の―なりとて」。
[2].御霊会(ごりょうえ)の略。
※10−2:祟り(たたり、curse)とは、[1].祟ること。神仏・怨霊などのする災い。「後の―が恐ろしい」。
[2].悪い報い。
※10−3:御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、疫病や天災を、非業の死を遂げた人物などの御霊(ごりょう)の祟りとして恐れ、御霊を鎮めることに依って平穏を回復しようとする信仰。
※10−4:御霊神社(ごりょうじんじゃ)とは、遺恨の死を遂げた人々の御霊(ごりょう)を祀る神社。崇道天皇社・上御霊神社・下御霊神社・北野天満宮などで、単に御霊神社という名の社も全国に散在する。
※10−5:御霊会(ごりょうえ)とは、疫神や死者の怨霊を鎮め宥(なだ)める為に行う祭。平安以降行われ、特に京都の祇園御霊会・北野御霊会が有名。みたまえ。御霊祭(ごりょうまつり)。
※11:北野天神縁起(きたのてんじんえんぎ)は、絵巻。菅原道真の伝記や北野天満宮の由来・霊験を描いたもの。祖本は鎌倉時代の成立。
※11−1:北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区馬喰町に在る元官幣中社。祭神は菅原道真。10世紀中頃の創建。例祭8月4日。八棟造(やつむねづくり)の現社殿は、慶長年中、豊臣秀頼の造営で、最古の権現造。二十二社の一。北野天神。北野神社。
※12:承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)は、承平・天慶年間に起った平将門と藤原純友の反乱。将門は東国で同族間の私闘を続け、939年(天慶2)常陸国府を襲撃し、自ら新皇を名乗り公然と朝廷に反抗するに至ったが、翌年藤原秀郷や平貞盛の為に敗死。純友は西国で海賊討伐を命ぜられて居たが、936年(承平6)自ら海賊を率いて朝廷に反抗、941年に敗死。何れも律令国家崩壊を象徴した事件。
※13:位記(いき)とは、叙位の旨を記して天皇が授与する文書。告身。第二次大戦後は内閣の所掌。
※14:志多良神/志多羅神/設楽神(しだらじん/しだらがみ)とは、平安時代、民間で信仰された神。疫神・御霊神の一種と考えられ、疫病の流行を免れる為に、九州から上洛したこの神を祀ったと言う。本朝世紀天慶8年7月27日「―と号ぶ輿三前・・・当郡に来り着く」。
※15:念仏踊(ねんぶつおどり)とは、[1].空也念仏のこと。太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らし念仏・和讃を高唱する所作が踊るのに似るから言う。時宗の一遍に依り広まる。後に民俗芸能化。踊念仏(おどりねんぶつ)。
[2].京都の六斎念仏、大阪天王寺の念仏会などの称。踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)・大念仏などとも称。後に盆踊と成る。
[3].元は悪霊を踏み鎮める踊りに由来すると言い、17世紀初め出雲の阿国が小歌や念仏に合わせて踊った阿国歌舞伎が歌舞伎の母体と成った。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※15−1:「ええじゃないか」とは、幕末、東海・近畿地方を中心に起った大衆的狂乱の舞踏。農村に在った御蔭参りの伝統を基盤とし、慶応3年(1867)8月頃東海地方に始まり、翌年4月頃に掛けて近畿・四国、更に信州方面等に広がった。神社の神符などが降下したのを契機に「ええじゃないか、ええじゃないか、お女陰(そそ)に紙貼れ」の囃子唄を高唱し乍ら集団で乱舞した。倒幕運動が行われて居た時でもあり、「世直し」的様相を呈するものも在った。
※16:雷神(らいじん、god of thunder, Thor)とは、雷電を起す神。鬼の様な姿をして虎の皮の褌(ふんどし)を纏い、太鼓を輪形に連ねて負い、手に桴(ばち)を持つ。中国で天帝の属神とされ、日本では北野天神の眷属神ともされ、雨を降らす農耕神でもある。日本では風神と対を成すことが多い。光の神。雷公。雷師。鳴神(なるかみ)。季語は夏。北野天神縁起「もろもろの―鬼類はみなわが従類となつて」。
※16−1:風神(ふうじん、god of the wind, Zephyros)とは、風を司る神。日本では一般に、雷神と対を成して、裸形で風袋を担ぎ天空を馳ける鬼体に表す。風布。風伯。「―雷神」。
※16−2:龍神・竜神(りゅうじん、dragon king)とは、(神格化された竜で、原姿は蛇)竜はヨーロッパでは悪・暗黒の形象化とされて居ることが多い(=ドラゴン)が、泉・宝物・女性を守護するという伝説も在る。東洋では水・雨と関連して農耕と結び付いて神格化されたものが多い。中国では鱗の有る動物の長であり、麒麟・鳳凰・亀と共にに四瑞の一。深い淵に棲むと言う。日本でも海神・水神として神聖視され、祥瑞の兆しとされた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※17:二十二社(にじゅうにしゃ)とは、大小神社の首班に列し、国家の重大事、天変地異に奉幣使を立てた神社。1039年(長暦3)後朱雀天皇の制定。伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神(おおみわ)・石上(いそのかみ)・大和(おおやまと)・広瀬・竜田・住吉・日吉・梅宮・吉田・広田・祇園・北野・丹生・貴船の各社。
※17−1:奉幣使(ほうへいし)とは、勅命に依って幣帛を山陵・神宮・神社に奉献する使者。
※18:国風文化(こくふうぶんか)は、平安中期から後期に掛けて栄えた、優雅な貴族文化。遣唐使の廃止に依って唐文化の影響が弱まると、仮名文字・女流文学・大和絵・寝殿造・浄土教芸術として開花した。
※19:和魂漢才(わこんかんさい)とは、(「菅家遺誡」の中の説)日本固有の精神と中国の学問。又、この両者を融合すること。日本固有の精神を以て中国から伝来した学問を活用することの重要性を強調して言い、明治の「和魂洋才」の元の語。
※19−1:菅家遺誡(かんけいかい/かんけゆいがい)は、教訓書。2巻。作者不明。平安末期、又は鎌倉時代に成立か。菅原道真に仮託して、公家の留意すべき事柄35章を挙げ、終りに和魂漢才説を述べる。
※20:神道で言う「大将軍(だいしょうぐん)」とは、暦の八将神の一。太白(金星)の精で、この神の在る方角は3年間変らず、3年塞がりとして万事に忌む。
※20−1:八将神(はっしょうじん)とは、暦の吉凶を司るという8神。暦本の初めに掲げて、その年に在る方角を記す。太歳(たいさい)/大将軍(だいしょうぐん)/大陰(だいおん)/歳刑(さいきょう)/歳破(さいは)/歳殺(さいせつ)/黄幡(おうばん)/豹尾(ひょうび)の8神。
※21:大自在天(だいじざいてん)は、(Mahesvara[梵]、摩醯首羅(まけいしゅら))ヒンドゥー教のシヴァ神の異名で、万物創造の最高神。仏教に入って護法神と成り、色究竟天に居住すると言う。密教では伊舎那天と同一視 −大自在天の忿怒形− され、十二天の一。 自在天。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※21−1:シヴァ(Siva[梵][英])は、ヒンドゥー教の三神の一。破壊神且つ創造神で、リンガ(=男根)を創造力(=生殖力)の象徴とする。その像は多く三目八臂(さんもくはっぴ)で天冠を頂き、虎皮を纏い、白の聖牛ナンディンに跨り、三叉戟を執る。又、舞踊の創始者としてナタラージャ(Nataraja[梵]、踊り手の王)とも呼ばれる。この神を信仰する一派をシヴァ派という。仏教に採り入れられて大自在天と成った。湿婆(しば)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※21−2:ヒンドゥー/ヒンズー(Hindu)は、ヒンドゥー教徒。
※21−3:ヒンドゥー教/ヒンズー教(―きょう、Hinduism)は、古代インドのバラモン教を前身(BC15世紀〜BC6世紀)とし、BC5世紀〜AD5世紀頃に形成された宗教。開祖を持たない。各地の土着信仰を採り入れ、その後、大乗仏教の影響をも加え、5世紀から10世紀に掛けて発展。後イスラム教/キリスト教が入るに及んで一時衰退、19世紀に宗教改革運動が有って再び隆盛。呪物崇拝/アニミズム/祖先崇拝/偶像崇拝/汎神論哲学などの諸要素を含み、多くの宗派に分れる。中でもブラフマー(創造神)/ビシュヌ(保存神)/シヴァ(破壊神)の3神が特に信仰される。カースト制度と深く結び付いて居り、現代のインド人の大多数が信仰する。ネパールやバリ島など他の南アジア諸国にも信者が居る。聖典はヴェーダ(←バラモン教と同じ)。インド教。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、「縮刷版 文化人類学事典」より>
※21−4:バラモン/婆羅門(brahmana[梵])とは、(浄行と訳す)[1].インドの四種姓制(ヴァルナ)中の最高位たる僧侶・祭司階級。梵天の裔で、その口から出たものとされ、専ら祭祀・教法を司り、他の3姓の尊敬を受けた。ブラーマン。
[2].バラモン教。又、その僧侶。
※21−5:バラモン教/婆羅門教(―きょう、Brahmanism)は、ヒンドゥー教・仏教以前から、古代インドのバラモン階級(僧侶・祭司)を中心に発達したインドの民族宗教。BC6世紀頃迄に成立。ヴェーダ聖典を権威とし、自然神を祀り祭式を重視した。宇宙の本体である梵天を中心とする。後にウパニシャッドの哲学的思索を深め、一時仏教に押されたが、民間信仰を包含してヒンドゥー教に発展した。又、ヴァルナ制度を思想的に支えた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※22:モンスーン(monsoon)とは、(mausim[アラビア語](季節)に由来)
[1].広義の季節風。広い範囲に亘って、約半年毎に風向が変わる風。冬と夏とで風向がほぼ反対に成る。東アジア・インド地方に著しい。
[2].アラビア海で冬季に吹く北東風と夏季に吹く南西風。
[3].インド・東南アジアでは夏の南西の季節風に因る雨季。又、雨季の雨。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※23:八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都市東山区祇園町北側に在る元官幣大社。主祭神は素戔嗚命(=牛頭天王が垂迹)、他に奇稲田姫命・八柱御子神。例祭の祇園会(=除疫の御霊会)の他、特殊神事に白朮祭(おけらまつり)が在る。二十二社の一。元は祇園社と称し、1868年(慶応4)改称。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※23−1:祇園祭(ぎおんまつり)は、京都の八坂神社の祭礼。昔は6月7日から14日、今は7月17日から24日迄行う。山鉾巡行などは有名。祇園御霊会。祇園会。季語は夏。
※24:素戔嗚尊・須佐之男命(すさのおのみこと)は、日本神話で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子。天照大神の弟。「すさ」は「荒(すさ)ぶ」に通じ凶暴で、天の岩屋戸の事件を起した結果、高天原から追放される。反面、出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を斬って天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得、天照大神に献じ国を守った。又、新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたと言う。本地垂迹説では、牛頭天王の垂迹とされる。出雲系の祖神(おやがみ)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※24−1:五十猛命(いたけるのみこと)は、素戔嗚尊の子。多くの樹種を持ち来って、妹神と共に大八洲国(おおやしまのくに)に播種した。大屋毘古命。紀伊の伊太祁曾神社(いたきそじんじゃ)の祭神。
※24−2:曾尸茂梨(そしもり)とは、(古代朝鮮語で「金のある部落」の意)素戔嗚尊が行ったという朝鮮南部の地で牛頭山が在ったとされる。神代紀上「新羅国に降到(あまくだ)りまして―の処に居(ま)します」。
※24−3:奇稲田姫・櫛名田姫(くしなだひめ、くしいなだひめ)は、出雲国の足名椎(あしなずち)・手名椎(てなずち)の女。素戔嗚尊の妃と成る。稲田姫。
※25:牛頭天王(ごずてんのう)とは、〔仏〕元インドの祇園精舎の守護神とも、薬師如来の化身とも、素戔嗚尊に垂迹(すいじゃく)したともされる(本地垂迹説)。除疫神として、京都祇園社(八坂神社)などに祀る。頭上に牛の頭を持つ忿怒相に表される。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※25−1:祇園精舎(ぎおんしょうじゃ、Jetavanavihara[梵])とは、須達長者が中インドのコーサラ国舎衛城の南の祇園(「祇樹給孤独園」の略)に釈尊及びその弟子の為に建てた僧坊。釈尊の説法の多くがここで為され、竹林精舎と共に二大精舎と言う。祇陀林。逝多林。平家物語1「―の鐘の声、諸行無常の響あり」。
※26:櫛田神社(くしだじんじゃ)は、福岡市博多区上川端町に在る元県社。祭神は大幡主神(=奇稲田姫命)・天照大神・素戔嗚命(=牛頭天王)。博多の総鎮守。7月1日〜15日の例祭は「博多祇園山笠」と称し、山笠の市中巡行で有名。
※27:疫神祭(えきじんさい)とは、陰暦3月に行う、悪疫の流行を防ぐ為の、疫神を鎮める祭。又、平安時代、宮城の四隅や畿内の境に疫神を祭ったこと。
※27−1:疫神(えきじん/やくじん)とは、疫病を流行らせるという悪神。疫病神(やくびょうがみ)。
※28:神泉苑(しんせんえん/しんぜんえん)は、平安京大内裏造営の際創設された禁苑。京都市中京区に旧址が在り、真言宗東寺派の直轄地。天皇の遊覧場であったが、空海がここに善女竜王を勧請して雨乞いの修法をして以来、請雨の修法の道場と成った。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『別冊歴史読本 日本「神社」総覧』(新人物往来社編・発行)。
△2:「太宰府天満宮」公式サイト。
△3:『菅原道真の実像』(所功著、臨川書店)。
△4:『天神信仰の成立』(河音能平著、塙書房)。
△5:「北野天満宮」公式サイト。
△6:「大阪天満宮」公式サイト。
△7:『インド神話入門』(長谷川明著、新潮社)。
△8:「八坂神社」公式サイト。
△9:『日本書紀(一)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△10:『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)。
●関連リンク
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地図−日本・京都市洛西(Map of West of Kyoto city, Kyoto -Japan-)
@参照ページ(Reference-Page):十干や十二支について▼
資料−十干十二支(Chinese zodiacal signs and 60 years cycle)
@参照ページ(Reference-Page):感染症や免疫関連の用語集▼
資料−最近流行した感染症(Recent infectious disease)
@参照ページ(Reference-Page):『小倉百人一首』の道真と忠平の歌▼
資料−小倉百人一首(The Ogura Anthology of 100 Poems by 100 Poets)
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