判 決 文

争点(1) 肺高血圧とこれに伴う右心不全を発見できなかった過失
争点(2) β遮断薬を投与した過失
争点(3) 説明義務違反、転院勧告義務違反

J大学病院には、裁判での医学的主張にも責任を持っていただきます。


(別紙)

主 張 対 比 表

原 告 ら 被 告 ら
争点(1) 肺高血圧とこれに伴う右心不全を発見できなかった過失
ア 平成10年12月15日(循環器内科初診日)の診察について
 岡田悦子は,労作時の息切れ,動悸,頻脈,疲労感を主訴として受診した。悦子の訴えは,肺高血圧症の典型的な症状である。
 心電図には,右心負荷を示唆する所見である肺性P波が認められた。(カルテには記載なし)。右軸偏位のみで心電図を判断するのは,重大な誤りである。
 胸部X線写真では,右肺動脈が太く,右肺動脈下行枝の最大径は計測すると20ミリに拡大していた(カルテには記載なし)。心胸郭比は58.7%で,中等度の心拡大となっていた。
 これらの所見は,肺高血圧症,右心負荷を示唆する所見であり,この時点で,被告Sは肺高血圧症を疑い,精査をしなければならなかった。しかし,被告Sはこれらの所見を読むことができず,精査をおこなわなかったため,肺高血圧症の発見ができなかった。
ア 悦子の死亡時の臨床診断名は,原因不明の即ち原発性の肺高血圧症である。
 原発性肺高血圧症の診断の手引き(乙B1)によれば,主要症状及び臨床所見として,息切れ,疲れやすい感じ,労作時の胸骨後部痛などの6項目が挙げられ,その診断のためには,そのうち3項目以上の所見を有しなければならないとされている。
 しかし,悦子の訴えは動悸,頻脈であって,心雑音も聴取しておらず,原発性肺高血圧症を疑うべき所見は1つも認められていない。
 また,その診断の手引きによれば,検査所見として,胸部X線像で肺動脈本幹部の拡大,末梢肺血管陰影の細小化,心電図で右室肥大所見(右室負荷所見ではない)が挙げられている。
 しかし悦子の胸部X線像では,右肺動脈下行枝の径は16ミリで,特に拡大しているとはいえないし,肺血管陰影の細小化も認められない。また,心電図では,P波が0.25とかろうじて肺性P波に該当するが,右室肥大の所見である右軸偏位などは認められていない。
 このように,平成10年12月15日の診察時において,胸部X線像や心電図は,原発性肺高血圧症を疑わせるものではなかった。
イ 平成10年12月26日(救急外来)の診察について
 悦子の救急外来受診の理由は,労作時の息切れが強くなり,両下肢に脱力感が生じたためであった。
 悦子の心臓は,12月15日に比べて異常が急激に進み,急激な右心負荷を起こしていた。心電図には肺性P波が相変わらず存在し,III,aVF誘導の陰性T波,胸部誘導の陰性T波,V5誘導の深いS波が認められた。これらはいずれも右心負荷所見であるが,T医師はIII,aVF誘導の陰性T波以外は読めなかった。
 簡易的に行われた心エコー検査が観察不良であったにもかかわらず,その所見が心電図変化より重要視されたことは重大な誤りである。
 悦子の下肢には浮腫も見られ,高谷医師はカルテに「下肢浮腫↑」と記載していた。これは,右心不全を認識させる所見である。また,12月15日に比べ,GOTが23から82,GPTが23から89と上昇していた。これは,うっ血肝(右心不全による肝機能障害)によるものであった。
 悦子が,このような状態にある以上,T医師は悦子を精査し,入院させる必要があり,右心不全の治療も必要であった。しかし,T医師は,悦子は帰宅させ,右心不全の増悪を生じさせた。
イ 悦子の救急外来の受診は,徐々に両下肢の脱力感が増強したという主訴によるものであった。
 心電図上,V3,V4誘導における陰性T波,V4,V5誘導におけるS波増高などの変化はあったが,胸部誘導の波形は電極位置によって大きく異なる。再現性に優れた四肢誘導には右軸偏位の所見は認められなかったのであり,病態の大きな変化はなかった。
 心エコー検査でも,肺高血圧症,右心不全を疑わせる明らかな右室の拡大所見は認められていない。
 下肢の浮腫が認められたが,この所見は原発性肺高血圧症の診断の手引きの所見は挙げられていない。また、GOT,GPTの高値は,右心不全に対する治療を行わないまま,平成1月19日には正常範囲内になっており,心臓を原因とするものとはいえない。
 T医師は悦子を精査目的で入院させなかったが,被告Sが,その後も悦子を外来通院させている。
ウ 平成11年4月20日の診察について
 悦子は,歩行することが少なくなってきたと訴えた。また,下肢浮腫は4ヶ月以上も続いていた。しかし,被告Sは下肢浮腫について診断も検査もせず,漫然と見過ごしてきた。
 悦子には,中等度の心尖部収縮期雑音も雑音も聴取された。これは三尖弁逆流によって生じるものであり,三尖弁逆流は右心不全のほぼ全例に認めれる。
 胸部X線写真の所見は,心胸郭比が60%と拡大しており,右肺動脈は相変わらず太かった(被告砂山はこの所見を無視しているので、カルテに記載はなし)。
 これらの所見は,肺高血圧症,右心不全を疑わせるものであった。(なお、肺高血圧症の臨床所見では,肺野にラ音は聴取されない)。
 したがって,被告Sは悦子に対し,心エコー・ドプラー検査をすべきであった。そうすれば,肺高血圧症,右心不全の診断は確実にできた。しかし,被告Sは心エコー・ドプラー検査をしなかったため,その診断ができなかった。
ウ 平成11年3月16日の診察時に,悦子には下肢(脛骨前)浮腫の所見が認められたが,GOT,GPTは34,38と正常範囲内であった。利尿剤は5回分しか処方されていないが,その後1か月以上たった4月20日の段階で,右心不全に対する治療が行われていないにもかかわらず,体重は増加していなかった。
 悦子の下肢の浮腫は,女性であり,その年齢(66歳)も考慮すれば,局所の静脈機能不全が一番の原因と考えるのが相当であった。
 原発性肺高血圧症で聴取される収縮期の心雑音は三尖弁口部に聴取されるが,悦子の場合は心尖部に聴取されており,原発性肺高血圧症を疑わせるものではなかった。
 胸部X線像は前回12月15日のものと比べて,心胸郭比,右肺動脈下行枝とも明らかな変化は認められず(右肺動脈下行枝の径は17ミリであり、正常の範囲内である),右心不全が12月15日以降に新たに出現したと疑わせる所見はなかった。肺聴診ではラ音は聴取していない。
 このように,下肢の浮腫や心雑音はあったが,それらは原発性肺高血圧症を疑わせるものではなかった。 
エ 以上のように,悦子には初診日から肺高血圧症を示唆する所見が認められ,急激な右心負荷が起こって,平成10年12月26日には精査と入院が必要になっていた。
 ところが,被告Sは,胸部X線写真では右肺動脈下行枝の径を計測せず,心電図の右心負荷所見が読めず,下肢浮腫から右心不全を疑わず,心エコー検査が必要であったのに一度も行わなかった。そのため,肺高血圧症,右心不全がようやく発見されたのは,平成11年6月29日の心エコー検査によってであった。
 このように,肺高血圧症,右心不全の発見が遅れたため,悦子の病状が悪化し,治療が手遅れとなった。
エ 平成11年6月29日のの心電図において,それまで見られなかった右軸偏位が見られ,同日の心エコー検査でも右心拡大を認めた。平成10年12月26日から平成11年6月29日までの期間に,肺高血圧症,右心不全の増悪が生じたものと考えられる。
 平成11年6月29日の心エコー検査まで,悦子の浮腫が右心不全によるものであるとの診断がされなかったことが,不適切であるとはいえない。
争点(2) β遮断薬を投与した過失
ア β遮断薬は,肺高血圧による右心不全のある患者に禁忌である。
 平成10年12月15日,被告Sは,悦子の動悸や頻脈はカルシウム拮抗薬(エマベリンL)が原因であると判断し,β遮断薬(アーチスト)に変更したが,この判断は誤りである。被告Sは,β遮断薬が心不全に禁忌の薬であることには注意も払わなかった。
 また,被告Sは,悦子に対し,β遮断薬について一切説明をお粉わかった。β遮断薬が心臓には禁忌の薬であるとの説明があれば,悦子が服用しなかった可能性は十分にある。
 β遮断薬の投与によって,悦子には急激な右心負荷が起こり,右心不全状態が悪化した。12月26日の救急外来の受診時には,悦子には右心負荷,右心不全を示す所見があり,精査と入院を必要とし,右心不全に対する治療も必要であったが,T医師によって引き続きβ遮断薬(テノーミン)が投与され,帰宅させられたため,悦子のの右心不全はさらに悪化した。
 被告Sは,平成11年1月5日にはカルシウム拮抗薬に戻したが,1月19日には再びβ遮断薬(テノーミン)に変更し,悦子の体がもたないとの訴えで中止される1月26日まで,β遮断薬が投与された。
ア 悦子がβ遮断薬(アーチスト、テノーミン)を服用したと考えられるのは,平成10年12月15日から平成11年1月5日までと1月20日である。
 その服用していた段階で,悦子の病状は原発性肺高血圧症が疑われるものではなく,また,右心不全が認められていたこともない。
イ 悦子の右心不全症状が顕在化したのは平成10年12月26日であり,被告Sがβ遮断薬の投与を開始したのは平成10年12月15日である。したがって,悦子の右心不全とβ遮断薬の投与との因果関係は明らかである。
  β遮断薬は右心不全の増悪因子であり,右心不全は肺高血圧症の進行した病態であって,肺高血圧症の予後規定因子である。したがって,肺高血圧症の予後は右心不全の程度に依存し,β遮断薬がこれに悪影響を及ぼす。β遮断薬の投与によって,悦子の右心不全状態は悪化し,悦子は死亡に至った。
イ 悦子の右心不全症状が顕在化したのは平成3月中旬以降であって,β遮断薬の服用をやめてから約2か月が経過している。β遮断薬が悦子の病状を悪化させたことを裏付ける証拠はない。
 悦子の肺高血圧症の原因は,病理解剖によって慢性肺血栓塞栓症と診断されている。β遮断薬には血栓形成を促進させるという薬理作用はないから,病態を悪化させることはない。β遮断薬に変更したことによる効果も認められていることであり,β遮断薬と肺高血圧症の進展との間には因果関係はない。
争点(3) 説明義務違反、転院勧告義務違反
ア 平成11年6月29日に行われた心エコー・ドプラー検査によって,悦子の肺高血圧症,右心不全が判明した。
 しかし,被告Sは,この重大な検査結果によって,悦子と原告らに説明しなかった。また,被告砂山としては,この時点で,6か月半の外来通院中に被告Sが肺高血圧症,右心不全をまったく予見できなかったこと,β遮断薬は肺高血圧による右心不全に禁忌であったこと説明すべきであった。
 そうすれば,悦子と原告らは,それまでの診断と治療が初診日からことごとく誤りで,必要な検査や治療が行われていなかったことを知ることができ,被告Sを即座に替え,専門施設に即座に転院することを要求することができた。
ア 原告らの主張する説明義務違反により,悦子がどのような自己決定権を侵害されたのか不明である。
 被告Sを替える権利をだれが持っているのか,転院先が具体的にどのような施設であって,その施設が受け入れてくれるのかも明らかでない。
イ 悦子の入院中に,悦子と原告らは,治療に加わった呼吸器内科の医師から,肺高血圧症の治療方法として,被告病院では経験のないプロスタサイクリン(プロスタグランジンI2製剤)持続静注法を実施する場合は国立循環器病センターに行くとの説明を受けている。
 本来,被告Sとしては,肺高血圧症の治療方法として,被告病院では経験のないプロスタサイクリン持続静注法があり,その療法には熟練した施設での治療が必要であることを説明すべきであった。そのうえで,悦子に対し治療に適した施設への転院を勧告する義務があったが,被告Sはこれを行わなかった。
 プロスタサイクリンが肺高血圧症に有効である作用機序としては,強力な血管拡張作用のほかに,血小板凝集作用により二次的血栓塞栓を予防し,血管平滑筋増殖抑制作用により血管リモデリングを抑制する効果が考えられている。
 プロスタサイクリン経口薬は,本件のように血栓が末梢に存在する慢性肺血栓性肺高血圧症についても有効であることが示唆されており,生命予後を改善させている。
 プロスタサイクリン経口薬に効果がない場合,速やかにプロスタサイクリン持続静注法を行う必要がある。悦子の臨床診断は原発性肺高血圧症であったから,プロスタサイクリン持続静注法は適用可能であり,大いに使用すべき方法であった。
 悦子は,血圧の低下が問題となって,プロスタサイクリン持続静注法が実施できなかったが,外来時は高血圧症と診断されていたのであり,血圧が低下したのは入院してからのことである。プロスタサイクリン持続静注法が実施できなかったのは,外来時における被告Sの診断の遅れによって,貴重な時間を無駄に過ごしてしまったからである。
イ 近年肺高血圧症に対するプロスタグランジン持続静注法の臨床効果が注目されているが,プロスタグランジンは,その添付文書によれば,原発性肺高血圧症と診断された患者にだけ使用するとされ,原発性肺高血圧症及び膠原病に伴う肺高血圧症以外の肺動脈高血圧症においては,安全性や有効性は確立しないとされている。
 悦子の肺高血圧症は慢性肺血栓塞栓症を原因とするものであったから,添付文書に従えば,プロスタグランジン持続静注法を行うことはできない。
 また,プロスタグランジンは肺小動脈平滑筋の収縮(機能的障害)を解除して血管拡張作用を発現し,肺動脈圧のていかをもたらすものであるから,末梢肺小動脈の多発性血栓閉塞(器質的障害)を主病態とした本件においては,仮にプロスタグランジン持続静注法を行ったとしても,効果は期待できない。

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