原告陳述書(甲A13号証)

 以下は、2004年3月16日に提出した原告岡田啓子の陳述書である。固有名詞は必要に応じてイニシャルとした。


陳述書

1. 私は、亡岡田悦子(以下、「亡母」といいます。」)の娘です。亡母の外来通院中は、平成11年2月16日を除いて、ずっと亡母に付き添っていました。亡母は病院内は車いすを利用していましたので、私は診察室の中も付き添っていました。

 私たち家族とJ医院とのかかわりは約20年の歴史があります。そもそもは、父の旧制高校時代の寮の同室者がJ医院の整形外科の教授をしていたことからです。その教授の紹介によって適切と考えられる医師のもとに通い、その間大過なくきましたので、J医院は適切な病院との印象をもっていました。

 しかし、亡母に起こった出来事を通して、私たちの信頼は裏切られ、私たちの考えが甘過ぎたことが分かりました。

2. 平成10年12月15日
 午前中脳外科外来の際、亡母は「動くと息切れがし、脈が速いです。」と話したところ、S教授(当時)より「心臓の病気は見つけにくいから、循環器内科に行きなさい」と言われ、循環器内科のS医師を紹介され、受診することにしました。そのため午後からのリハビリをキャンセル、胸部X線写真、心電図及び血液検査を脳外科で予約し、行いました。
 循環器内科の新患は再診の人が全員終わってからで、呼ばれたのは午後4時を過ぎていました。

 胸部X線写真、心電図検査については、説明がありませんでしたので、特に問題はないのだと思いました。既に服用していたカルシウム拮抗薬(エマベリンL)をβ遮断薬(アーチスト)に変更するように言われ、次回の予約を平成11年1月5日にしました。

 S医師は陳述書に、「カルシウム拮抗薬(エマベリンL)の処方を受けたあとから動悸などがでるようになったとの話でした。」と書いていますが、亡母はこのような話をしていませんしエマベリンLの処方中、ずっと動悸が出ていた事実はなく、むしろ動悸が出ていなかったことの方が長いのです。

3. 平成10年12月26日(土曜)
 亡母は、午後脳外科S教授(当時)に電話をし、救急外来を受診しました。
下肢の脱力感が強くなったと話し、MRI検査を行いましたが、結果は以前と変わりませんでした。

 亡母は、脈が速いとも訴え、顔色も悪いので血液検査を行い、脳外科S教授が循環器内科T医師を呼び、T医師の診察を受けました。動悸、息切れを感じると話しています。また、心電図、心エコー(ポータブル)検査を行いました。亡母は、診察中ずっとベットに寝ていました。

 カルテに下肢むくみ増強との記載があります。これは循環器内科T医師が触診して分かったことです。
血液検査でGOT、GPTの上昇があり、薬をアーチスト(β遮断薬)からテノーミン(β遮断薬)へ変更、精神安定剤ホリゾンが出ました。薬をもらって帰ろうとしたところ、T医師は「気になるので、もう一度部屋に来てほしい」と言い、再度心エコー検査を行いましたが、何の説明もありませんでした。しかしT医師は心エコー検査結果についてかなり気にしているなと、私は思いました。
 亡母と私は帰宅しました。

 S医師は陳述書に、心エコー検査について「この段階で右心室の拡大はなかったと考えられます」と書いていますが、12月26日の心エコー検査の記録(写真及びビデオテープ)が残っていないので、確かめることは出来ません。

4. 平成10年12月31日、亡母は、ホテルへ行く途中の駅の階段で歩けなくなりました。
 同年12月31日〜平成11年1月3日は、亡母は気分が悪く、1月3日に再び下肢の脱力感が生じるといい、同日脳外科S教授(当時)に電話をし、1月4日、急きょ脳外科の外来を受診することにしました。

5. 平成11年1月4日
 脳外科外来で、亡母は朝起きた時気分が悪い、心臓がドキドキする、頭がフラフラすると話しました。そして血液検査を行いなした。

 当日脳外科の診察で、亡母の手の動きが以前より良くなっていることに、亡母も私も驚きました。リハビリのせいと思うと同時に、亡母が具合が悪いと訴えるのは、循環器内科で処方されたβ遮断薬のせいだと、亡母と私は考えるようになりました。なお、今まで帰宅する時のみタクシーを利用していましたが、この日から往復タクシーを利用することにしました。

6. 平成11年1月5日
 循環器内科外来で、S医師は、前日に行った血液検査のデータにより、テノーミン(β遮断薬)を中止し、エマベリンLを服用するように言いました。
 S医師は、亡母が救急外来を受診したことも、昨日急きょ予定外の外来受診したことも、全く気にとめた様子はありませんでした。

7. 平成11年1月19日
 循環器内科外来で、S医師は、亡母の脈が速くなっていたことに対し、「エマベリンだと心拍数が上昇する」と言い、薬をテノーミン(β遮断薬)に変更しました。

 亡母は、具合が悪くなるのはβ遮断薬のせいだと思っていましたので、薬の変更にいやな顔をしていたのですが、S医師は「薬に慣れてほしい」と言いました。この時、亡母も私も、S医師はβ遮断薬に固執していると強く感じました。
 S医師は、頻脈の原因を究明することは一度もありませんでした。

8. 平成11年1月21日
 亡母は「やはり具合が悪くなる」と言ったので、私が「薬が変えてもらいに病院へ行く?」と尋ねると、亡母は、「来週火曜日にリハビリで行くのでその時でいい」と言いました。薬は20日に服用しただけで、その後はやめていました。

9. 平成11年1月26日
 リハビリの問診の際脳外科で、亡母は下肢の脱力感、しびれ感、吐き気の症状があると話し、「薬(β遮断薬)に慣れるまで体がもたない」と訴え、S医師への薬の変更の依頼の手紙を書いてもらいました。隣の部屋からS教授(当時が来られて、「岡田さんがこれほど言うことは今までない」と言いました。

 循環器内科へ行った時、S医師は「我慢できないですか」と言ってました。私は、S医師は皮肉を言っていると思いましたが、薬の変更にほっとしました。
 S医師は薬をヘルベッサーR(カルシウム拮抗薬)に変更しましたが、この日は肝機能ための血液検査さえ行いませんでした。
 S医師は陳述書に、「脳外科から診察の依頼があった」と書いていますが、これは間違いです。カルテにある依頼書にも「処方の変更依頼」とちゃんと書いてあります。

10. 平成11年2月16日
 私は風邪をひき、亡母の付き添いを父に代わってもらいました。

11. 平成11年3月2日
 リハビリに行くために、亡母に靴を履かせた時、靴ひもの余裕がなくなっているのに、私は気づきました。下肢のむくみに気づいたのです。
 但し、2月10日から3月1日まで、私は亡母の靴ひもを結んでいないので、この間に下肢のむくみに気づくことは出来ません。

12. 平成11年3月11日
 亡母と私は、午後4時からテレビ東京のレディス4「異常発見、足・まぶたのむくみに注意」を見ました。番組で「カルシウム拮抗薬が原因でむくみが生じることもあるので、この場合は担当医と相談して下さい」と言っていたので、次週の火曜日の外来時にS医師に尋ねることにしました。

13. 平成11年3月16日
 循環器内科外来時に、下肢のむくみについて話しました。また、11日のテレビ番組の内容についてS医師に尋ねると、「そんなことはありませんよ」と返答がありました。

 S医師は陳述書に、下肢のむくみについて「他に訴えもないことから」と書いていますが、問診をしていないし、触診もしていません。また「主に年令的なものと日常活動の低下によるものではないかと考えました。」と書いていますが、これでは初診日からの亡母の経過がどこへ行ったのかと思われる判断です。
 問題は、S医師が救急外来(平成10年12月26日)のカルテに下肢むくみ増強と記載されていたことに注意を払っていなかったことです。この記載に気づき、S医師自身が触診をして確かめていれば、亡母の訴えを待つまでもなく、もっと早く下肢のむくみに気づくことが出来たのです。

 更に、S医師は陳述書で、「胸部の聴診でも、それまでと変わらず心音に雑音なく呼吸音でもラ音を聴取していません」と書いていますが、3月16日のカルテには胸部の聴診については一切記載がなく、事実かどうかわかりません。
 利尿剤の処方が始まりました。

14. 平成11年4月20日
 循環器内科外来時に、亡母は歩行することが少なくなってきたと話しました。利尿剤の影響もあり、頻繁にトイレに行き、歩くことがつらいので、トイレの前に椅子を持っていって座っていました。

 胸部X線検査を行いましたが、特に説明はありませんでした。
 また、カルテに心尖部の収縮期雑音+の記載がありますが、これについて、S医師は私たちに言っていません。三尖弁逆流が生じると収縮期雑音が聴かれるようになり、三尖弁逆流は右心不全のほぼ全例にみられるのです。
S医師は、収縮期雑音について、このような認識はありませんでしたが、心雑音を聴取しているのですから、異常だということぐらい考えてほしかったと私は思います。

 S医師は陳述書に、4月20日に心エコー検査を行わなかったことについて、「前年12月26日に行われており、それでは特に異常な所見も認められていませんでしたので行いませんでした」と書いていますが、これは実におかしな意見です。前年12月26日のカルテには、観察不良と書かれているのですから、4月20日より以前に心エコー検査は必要だったのに行っていないことこそ、問題なのです。

15. 平成11年5月18日
 循環器内科外来で、血液検査を行いましたが、異常はありませんでした。この血液検査は、むくみの原因として、甲状腺機能低下症を疑い行ったものですが、S医師からはこのような説明はありませんでした。亡母と私は、下肢のむくみが一向に改善しないことをとても気にしていました。

16. 平成11年6月15日
 循環器内科外来で、亡母は下肢のむくみは相変わらずの状態であると話しましたが、S医師は亡母に家での様子を尋ねることは外来中ずっとありませんでした。亡母の経過をみているのですから、なにかぎりぎりに症状が出るような行動を想定して、階段を上がった時はどうですかとか、家で歩いた時はどうですかとか、前に比べてきつくなったか、あるいは楽になったとか、そういう聞き方を」一度もしていません。S医師は、亡母に対しての聞き方が実に下手でした。

17. 平成6月29日
 脳外科外来時に、S教授(当時)が「下肢だけでなく、顔面のむくみも目立っているから、循環器内科に行きなさい」と亡母に言いました。
 S医師は陳述書に、脳外科外来で亡母と私がむくみが軽減してきていると言った、と書いていますが、足の甲はあまり変化がなかった記憶していますが、亡母と私はこのようなことを言ったことはありません。
 亡母は循環器内科を受診することにしました。

 S医師は、心電図と心エコー検査を行いました。そのあと、診察室に行き、7月2日に肺血流シンチ検査の予約を、次回の診察日を7月6日にしました。
 心エコー検査により右心系の拡大が、更にドップラー法により肺高血圧が、放射線科医師の所見により確認されました。また下肢や顔のむくみが右心不全の症状であることがわかりました。
 しかし、S医師は、これらの結果を、亡母と私に全く説明しませんでした。

 そのあと亡母は、いつも通りリハビリを行いました。リハビリ終了後、亡母にストッキングをはかせた時に、私は手がぬれているのに気づきました。2〜3箇所下肢から水が滲み出ていたのです。亡母と私は、下肢から下肢から水が滲み出ていた原因が右心不全によるものだとは、知る由もありませんでした。

18. 平成11年7月2日
 亡母は、肺血流シンチ検査を行いました。

19. 平成11年7月6日
 リハビリの問診の際脳外科で、下肢より水が滲み出していることを説明し、皮膚科を紹介してもらいました。

 また、亡母と私が、「S医師はやっと検査を始めた」と言うと、隣の部屋から脳外科S教授(当時)がわざわざ出て来て「先生を替えても…」と言いました。私はS教授の発言をとても不快に思いました。S教授は6月29日の検査結果について、S医師より報告を受けていましたが、それについてこの時も、その後も一切何も言いませんでした。またS教授は肺高血圧症の専門家である国枝氏が知人なのですが、このときは沈黙し、亡母が亡くなってから私と父に伝えました。これでは全く役に立ちません。

 循環器内科外来で、S医師から肺血流シンチグラム検査について「右中肺野に一部もやもやしているものがある」と説明を受けました。これ以上の説明はありませんでした。
 7月14日に経食道超音波検査の予約をしました。利尿剤が2種類に増えました。

20. 平成11年7月14日
 亡母は、経食道超音波検査を行いました。そのあと検査結果について、S医師は「心臓も肺のどちらもはっきりしたところはない」と言いました。そこで亡母も私も、どこか悪いところがあるのなら、入院してからの検査でないとわからないと理解しました。

 S医師は陳述書に、6月29日から7月14日までの検査結果について、自らの考えを書いていますが、このような説明は全く聞いていません。
 7月29日からの検査入院と入院中の検査予約をしました。私は亡母に「2週間で入院出来るのはラッキーよ」と話しました。

21. 平成11年7月24日
 亡母は病院へ行く時、着ているリハビリパンツが「Lの方がいい(今まではM)と言うので、私は買いに行きました。亡母はお腹がむくんでいたことに気づいたのです。これは右心不全の症状である腹水が原因ですが、この時は分かりませんでした。
 S医師の隠蔽によって、亡母と私は病状の変化を的確に判断することが出来ませんでした。

22. 平成11年7月29日
  亡母が、1〜2週間の検査目的で入院する日です。
 お腹のむくみによって、亡母は病院へ着ていくズボンのチャックが半分しか上がりませんでしたし、亡母は階段を歩いて下りることが出来ないというので、私とタクシーの運転手で担いで降ろしました。

 1号館9階Aのナースステーションの前で、S医師に会いました。私は外来担当のS医師がここにいたことを、とても不思議に思いました。S医師は亡母の顔とお腹のむくみに驚いた様子ですた。

 入院担当医である循環器内科O医師は外勤で留守で、A医師は女性で、研修医でした。しかし、研修医という説明はありませんでした。

23. 平成11年7月30日
 私は、亡母が昼食を済ませた頃を見計らって電話をしました。
亡母は、「塩分を制限した食事でおいしくない。水分を制限されている」と言いました。私は、なぜ初めからこんなことが行われるのか不思議に思いました。また亡母は「『よくこんな低酸素状態でいられましたね。普通ならぶっ倒れていますよ』と言われた」とも言いました。

 おしまいに、「私退院したら、あの医師もういいわ」と言い放ちました。この発言は、1ヶ月前に比べてからだの状態が違ってしまったこととと、S医師がとにかく検査を行わなかったことが理由で、入院に際し「退院したら、S医師は交替してほしい」と望んだものと考えられます。

24. 平成11年8月1日
 私と父は、亡母の見舞いに行き、循環器内科のO、A両医師から話しをききました。
「最初は心臓を疑っていたが、現在最も疑わしいのは肺で、肺血管の問題です。肺動脈→右心室→右心房→静脈→全身という順序でうっ滞があり、浮腫という症状が現れている。原発性肺高血圧症と肺血栓塞栓症の2つの病名のうち、今疑っているのは肺血栓塞栓症です。検査目的で入院したが、心臓の検査は延期して、治療をする。同時に呼吸器内科と一緒に肺の検査を行っていく。
 今、血中酸素が40〜50%しかなく、これは健常人の半分であり、現在6リットルの酸素を送っているが、10リットル以上になると人工呼吸以外方法がない。そうすると話しが出来なくなる」との説明でしたが、私が「どうしてももっと早く気付かなかったのですか」と尋ねると、O医師は「ゆっくり進んでいて、本人の体が慣れると訴えは少なく、病気は隠れてしまう」と答えましたが、後から考えると亡母にはこの答えが当てはまりせん。

25. 平成11年8月7日
 亡母はCCUへ転棟しました。私は見舞いに行き、入院中の検査結果を聞きました。
 循環器内科O医師から、「昨日の肺血管造影の結果は肺血栓塞栓症の可能性は低いです。原発性肺高血圧症の可能性を考えます」と説明がありました。

 私が「どんなお薬を使うのですか」と尋ねると、O医師は「ドルナーです。血圧が低下して薬を中止することもあります」と答えました。
 被告らは被告準備書面に、「入院中のプロスタサイクリン持続静注法はどの施設においても施行可能なものである」と書いていますが、O医師はプロスタサイクリン持続静注法の名前をあげることさえありませんでした。

 私は、「原発性肺高血圧症の可能性を考える」と聞いたのをきっかけに、帰りに丸善で毎日ライフ9月号(甲B1・p.76-9)を買いました。内容に驚き、大変な病気になったと思いましたが、なぜこのような内容を聞いていないのか、またドプラーエコー法なんてやっていないと、この時は思いました。帰宅後、私はドルナーについて、『医者からもらった薬がわかる本(法研)』で調べました。何気なしにβ遮断薬(商品名アーチストとテノーミン)についてのページをめくり、「〔使用上の注意〕@服用してはいけない場合…肺高血圧による右心不全」と書いてあるのを見て、驚きとともに怒りが込み上げてきました。β遮断薬の投与で症状が悪化した理由がやっと分かりましたが、S医師に対する不信感がなお一層強くなりました。

26. 平成11年8月12日〜30日まで
(1) 8月12日に、呼吸器内科医師から、治療法としては、NO吸入療法とプロスタサイクリン(PGI2)持続静注法があるとの説明がありました。
 プロスタサイクリン持続静注法については、「実施する場合は国立循環器病センターへ行きます。しかし、国立循環器病センターの医師から血圧が低下している場合はダメですよと言われています」と説明を受けました。結局、プロスタサイクリン持続静注法を施行することは出来ませんでした。
 NO吸入療法は、「Jでは小児外科(新生児)や胸部外科(ope中患者)には経験があるが、肺高血圧症に対して初めてである」との説明がありました。私と父は、とにかく出来ることは何でもしたいと思い、NO吸入について了承しました。

 8月17日に、NO吸入を施行しましたが、肺動脈圧はわずかに下がっただけでした。医師たちは効果がみられないと判断していました。

 8月19日に再度NO吸入を行うことになりましたが、千葉大学の栗山教授の助言により取り止めにしました。更に、栗山教授から今一番効果があると予想されるのはPGI2持続静注法であるが、血圧が低下してショック状態となる可能性が高いとも言われました。

 血圧が低くて治療を施行出来ないということは、私と父にとって許せないことです。亡母の血圧が低くなったのは入院してからのことです。外来では、亡母は高血圧症との診断でした。血圧の低下を問題にすることなしに、とプロスタサイクリン持続静注法を施行する期間は十分過ぎる程あったのです。S医師は一体何をしていたのかと思うと、怒りが込み上げてきました。

(2) 8月21日、亡母はCCUから9階の病室(ナースステーションの前)に戻りました。

 8月22日午前0時30分、「血圧が低下してきている。意識ははっきりしている」と電話があり、タクシーでJ医院へ行きました。肺炎を起こしている可能性があるとの説明もありました。
この日の夜から、私と父は交替で近くのホテルに泊まることにしました。更に、私は27日から自分の当番の時に病室にとまりました。

 「苦しい、苦しい」という亡母を、ただ眺めているのは本当にむなしい気持ちでした。Jに入院したのは間違いだなと思うようにもなりました。

(3) S医師は、陳述書の最後に、「早期のプロスタサイクリン持続静注法、肺動脈血栓内膜除去術については、入院中に行ったドルナーの経口投与、NO吸入で肺血管拡張反応がみられなかったこと、外科的に除去可能な血栓を認めなかったことにより、これらの治療効果は残念ながら亡悦子さんにとって期待できないことは明らかといえます。」と書いています。
 肺動脈血栓内膜除去術については、亡母に適応されるとは私も入院担当の医師も考えたこともありません。
 NO吸入後もドルナーの経口投与で反応がみられなかった後も、プロスタサイクリン持続静注法実施について話が出ました。ドルナーの経口投与に効果がみられない場合は、速やかにプロスタサイクリン持続静注法を行う必要があるのです(甲B19・p.2197-8)。
 亡母にとって明らかなことは、S医師の診断の遅れにより、血圧が低くなってしまい、プロスタサイクリン持続静注法を実施できなかったことです。
 S医師が陳述書に書いた内容は間違いであり、治療についてもよく知らないのだと思います。治療についてよく知らないのは、入院担当の医師たちも同じでした。

27. 平成11年8月31日
 亡母は午前10時21分亡くなりました。顔のむくみがすごかったのです。
私は「S医師許せない。一体あの7ヶ月は何だったの」と言って泣きました。

 そのあと、入院担当の医師たちから説明を受けましたが、循環器内科S・JI医師の6月29にちの心エコー検査で、肺高血圧がはっきりしていたとの説明に驚きとショックを受けました。
 外来通院中、亡母と私は、6月29日のそのような説明をS医師から全く受けていなかったからです。しかし、S医師は、亡母と私に説明をしました、と入院担当の医師たちに伝えていました。私は後刻このことを知りました。S医師が伝えていたということは、偽りだったのです。
 私は、このままうやむやにするわけにはいかなないと、決心しました。

28. 亡母の死去後、S医師を数度に亘りJ医院に訪ね、外来時の経過について尋ねました。

 平成11年10月下旬には父の求めに応じて外来経過についての報告(甲A1)と外来カルテ及びけんさデータがS医師から送られてきました。
 S医師よりS院長(当時)宛のFAX(甲A10)の返事(甲A2)を受け取ったほか、直接書面によるやりとりを電話を含めて数度に亘り行いました(甲A3、4、5、11、12)。
 当初は要領を得ない回答も多くありましたが、平成12年2月23日の電話を(甲A4)をきっかけに、次第に多くの点が明らかになりました。

(1) S医師だけでなく、循環器内科の医師たちは、β遮断薬を実に積極的に投与し、その使用に固執していました。
 私は、S医師に初診日から投与を開始したβ遮断薬の使用について、何度も尋ねました。

 平成12年2月23日の電話で、S医師は、「初診の方で、中年以降の女性の方、血圧が高くてかつ脈が速い方は、特にカルシウム拮抗剤を飲んでいらっしゃる方は、β遮断薬に直すと症状が良くなるような方も、確かに多いんですけどね(甲A4)」と言いました。
 私は、S医師の話しに頭を抱え込んでしまいました。脈が速くて、カルシウム拮抗薬を服用していた亡母に対し、S医師は、従来のように、脈の速い原因をカルシウム拮抗薬のせいにしてしまったのですが、亡母の場合は間違いでした。この短絡的な考え方によって、亡母にとって禁忌の薬であるβ遮断薬が投与されたことなのかと、私は思いました。
 その上、S医師のβ遮断薬に対する思い込みは激しく、亡母は症状の悪化を強く訴えても、S医師は気にも留めず、投与そのものの間違いに気づくことはありませんでした。

(2) 私が最も知りたかったことは、何故S医師が平成11年6月29日の心エコー検査結果を話さなかったのかということです。
 当初は、私の質問の内容をすり替え、説明不足と言い張っていましたが、平成7月28日付の私宛の手紙(甲A12)で、「外来の合間ではなく、結果が出そろった時点で病棟担当医からお話しさせていただく方が良いだろうと判断しました」と返事をしてきました。
 S医師は、心エコー検査結果を話さなかった理由をとうとう明らかにしませんでしたが、話さなかったということは認めました。このことを知るのに、亡母の死後1年かかりました。
 私と亡母が、S医師から心エコー検査結果の説明を受けていたのなら、その時私は「一体今まで何をしていたのですか(甲A12)」と言って怒り出し、S医師ではもうダメだと判断したと思います。
 亡母は、その時点で、医師の交替を要求したと思います。
 更に、肺高血圧症についての説明と情報が提供されていたならば、即座に転院を要求していました。

 私たちにとって、S医師の交替と転院の要求の根拠となる検査結果を隠蔽されたのです。

29. 平成12年9月6日に、私と父は循環器内科の関係者と会いました。先方より申し出があったのです。
 循環器内科の出席者は、D教授、M講師、S医師及びY・H前教授。Y・H前教授は、亡母が循環器内科に外来及び入院中、主任教授だった医師であり、私たちはY・H前教授と会うのは今回が初めてであり、しぶしぶ出て来たという印象でした。
 Y・H前教授は「忙しいのに会いに来てやってる。こっちだって、傷ついている」と発言をしました。「こっちだって傷ついている」ということは、素人である私に、ここまで追及されるとは予想さえしていなかったことを意味していると思います。
 また、β遮断薬の投与について、Y・H前教授は「知っていたら使わなかった」と言いました。「使わなかった」と言うのですから、亡母にβ遮断薬を投与したことは間違いであったことを認めたことと同じです。

30. 平成12年11月22日、私と父が求めていた帰国後のS院長(当時)との面談が実現しました。
 私たちから、これまでの経過について説明し、私たちの考え方を述べました。S院長は、私たちの述べる内容及び考えについて大筋で認め、診断に誤りがあったことを認めました。また、β遮断薬の投与については、はっきりと間違いであったことを認めました。
 S医師の交替と転院の問題については、「患者側から申し出があれば、Jはこれを拒否する理由はない」とS院長は言いましたが、「肺高血圧症に対して、Jとしては診断レベルは低くないと思っている」とも言いました。
 しかし、医師の交替及び転院について、患者側から申し出るには、医療側からの病状の説明と転院先の情報提供が必要ですが、この最も大事なことが今回全く行われなかったのです。
 面談の終わりに、S院長は「今回の件は、医者の患者に対する対応が不適切であったということで、従って患者側より病院に対して何をしてほしいか、またすべきであるかを言ってほしい」と言いました。

 平成12年12月14日、私たちの側から当方の和解案を提示しました。

 平成13年1月18日、J側から返事をもらいましたが、私たちの和解案は拒否されました。J側の返事は、まったく一片の誠意、良識も感じられない内容と解せざるを得ませんでした。
私たちは、このまま放置するのは間違いと考え、訴訟を決心し、弁護士に依頼するすることにしました。

31. わたしは、亡母の死去後から、専門書を読み、インターネットを活用し、勉強してきました。専門書については、肺高血圧症の診断と治療に豊富な臨床経験を持つ、特に国立循環器病センター(甲B3、4、6、7、18、19)と千葉大学(甲B1、2、16)の医師の執筆によるものを極力選んで読みました。私自身、ずいぶん肺高血圧症について詳しくなったと自負していますが、亡母の病状については、分からないことも多かったのです。

 そこで、平成14年10月25日、肺高血圧症の専門家(以下「先生」といいます。)を父と一緒に訪ねました。
 胸部X線写真、心電図及び肺血流シンチ写真を持参し、特に初診日(平成10年12月15日)と救急外来を受診した日(平成10年12月26日)の診断について尋ねました。
初診日の胸部X線写真は証拠保全時に受領し忘れ、後から再依頼したので原寸大のままです。その写真を見せました。
先生は、「肺動脈が太いですね」と言い、次いで定規で右肺動脈下行枝径を計測しました。20mmと言いました。
S医師は陳述書に、「肺動脈が特に太いということはありません」と書いています。またカルテには一切記載はありません。S医師は肺動脈が太いと認識せず、それゆえに計測しなかったのだと思います。
 肺動脈が太くなっているということは、肺高血圧の存在を示唆する所見です。
胸部X線写真をみて、肺動脈が太いと認識できるかどうかが、初診日における診断上の重大な岐路であったと私は思いました。

 また、先生は、平成10年12月26日(救急外来を受診した日)の心電図を見て、「12月15日に比べて、異常が急激に進んでいますよ。急激な右心負荷ですよ。この日の診断で精査する必要があり、入院の必要がありますよ」と言われました。重視されたのは、胸部誘導の心電図変化でした。S医師やT医師が読めなかった所見です。
 私は、異常が急激に進んだ原因はβ遮断薬だと思いました。なぜなら、12月15日に受診してから変わったことは、β遮断薬の投与が開始されたことだけだからです。率直に言って、私はショックでした。亡母は入院するどころか、帰宅し、薬の変更があったとはいえ、引き続きβ遮断薬画投与されていたからです。更に、亡母はその後も症状の悪化を訴えました。

 私が下肢のむくみについて尋ねると、先生は、「下肢のむくみをみて右心不全を疑わないようではね」とすっかり呆れていたようでした。私まで恥ずかしくなりました。

 先生のお話を聞き、平成10年12月26日に精査・入院の必要があると言われたのですから、肺高血圧症の的確な診断のためにも、この時点で、専門施設へ転院する必要があると私は強く思いました。

32. 肺高血圧症の診断は、臨床症状に、胸部X線写真、心電図、心エコー検査で診断は出来ます。
しかし、亡母の肺高血圧症の診断は、平成11年6月29日に行ったドップラー法を併用した心エコー検査の放射線医師の所見によるものです。肺高血圧症の診断までに要した期間は6ヶ月半であり、あまりにも長すぎたのですが、その期間のS医師の診断は、
 (1) 息切れ、動悸を訴えた初診日の平成10年12月15日の胸部X線写真で、右肺動脈が太くなっていることに気づかず、肺高血圧症を疑わなかった。
 (2) 心電図では右心負荷所見が認められますが、平成11年6月29日の右軸偏位以外の右心負荷所見即ち、肺性P波、陰性T波、V5の深いS波を読めなかった。肺性P波は平成10年12月15日よりずっと、陰性T波は12月26日、V5の深いS波は12月26日よりずっと認められた。
 (3) 下肢のむくみをみて、右心不全を疑わなかった。
 (4) 平成10年12月26日(救急外来受診日)の下肢むくみ増強のカルテ記載に注意を払わず、何もしなかった。
 (5) 心エコー検査を平成11年6月29日まで頑固に行わなかった。

 他方、治療については、肺高血圧による右心不全のある患者に禁忌であり、右心不全の増悪因子であるβ遮断薬を、初診日の平成10年12月15日より投与し、亡母に急激な右心負荷が起こった。更に引き続きβ遮断薬を投与し、右心不全を悪化させた。
 また、S医師は、「無理やり浮腫だけをよくしようというような形の治療をしますと、結局循環する血液量が減ってしまいますから、体の中の酸素量が少なくなってしまうわけですよ(甲A4)。」と言い、更に、「浮腫だけにダーケットをしぼって治療するのは、かえって悪い結果を招いてしまう可能性が高いわけです(甲A4)。」と言いましたが、平成11年3月以降、S医師が亡母に行った治療はまさに、このような治療でした。

 S医師が的確な診断が出来ず、それゆえに行った治療が、亡母の生命予後に影響した可能性は、診断後の経過からみても、右心不全の悪化を認めたこと、低酸素血症であったこと、血圧が低くてプロスタサイクリン持続静注法が実施出来なかったこと等が示すように、明らかです。

 従って、初診日の平成10年12月15日から肺高血圧症を示唆する所見があり、また平成10年12月26日は精査・入院を必要としたのですから、どんなに遅くとも平成11年1月初旬に専門施設へ転院する必要がありました。
 そうすれば、亡母の状態は、Jに入院した時とは全く違っており、適切な検査や治療期間が十分にとれました。まして、「血圧が低かったから」というJのレベルの低さを象徴する理由でプロスタサイクリン持続静注法を実施出来なかったことは、全くなかったのです。

 S医師は、あれこれと言い訳ばかりしていないで、また都合の悪い事柄があると問題をすり替え、こね回していないで、今後の適切な医療活動のためにも、特に心電図と胸部X線写真については、基礎から勉強し直してほしいと思います。

以上

平成16年3月16日
住所 省 略
岡 田 啓 子


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