「あの子たちに会いたい」
                            響サークル 高山智子

 1945年8月6日。私は広島県立海田高等女学校の一年生でした。
校庭で朝礼が終わり、教室に入った途端、今まで経験したこともない
光が貫き、地をゆするような音と共に窓ガラスや天井板が落ちてきて、
あわてて机の下にもぐりこみました。爆心地から9q離れた所にあっ
た私たちの学校です。

 当時、中学校・女学校は広島市内に集中していましたが、私たちが
受験する1年前に学区制がひかれ、4年前に新設された海田高女が
安芸郡に居住する女生徒にふり分けられました。結果的に私達は原
爆から逃れられたのです。しかし、男子生徒の中学校はすべて市内
でした。小学校の頃仲良しだったS子さんは、市内の私立の女学校に
入学していました。

 当時、広島市内の中・女学校の1年生は建物疎開(爆撃された際の
類焼を防ぐための建物の間引き)の作業に従事させられていました。
 原爆投下後、私達の住む町にも広島市に入っていたたくさんの犠牲
者が出ており、町全体が混沌としていました。そんななかでS子さん
が亡くなったらしい事を知りましたが、ご両親に会う勇気がありません
でした。元気な自分に後ろめたいものを感じ、臆したのだと思います。

 時が流れ、同期会で原爆で亡くなった同級生の三十三回忌の法要
を遺族を招いて行いました。その時のS子さんのお父さんが「智ちゃん、
大きゅうなったのう。元気でやりんさいよ。」と声を掛けてくださいました
が、私は「お父さんもお元気で。」と頭を下げるばかりでした。40代に
もなっている私に我が子を重ねられたのでしょう。やはり私の後ろめ
たいような気持は変わりませんでした。そして、五十回忌の時にはご
両親とも亡くなっていました。

 昨年の11月、小学校を卒業して57年目の同期会でS子さんのいと
こに会いました。「あなたに聞きたかったのよ。S子さんはどんな亡くな
り方をしたん?」「僕は5日に市役所(爆心地から1.3q)の裏で建物
疎開の作業をしていた。S子の学校からも同じ場所に来ており、出会っ
たのでニッと笑い合った。その日、僕は釘を踏み抜いて怪我をしたので、
6日には休んでいて助かった。S子は何も残らなかった。」と言いました。
今まで心にひっかかっていた思いが噴き出してきて、いいようもないつ
らさと悲しみを覚えました。

 朗読劇「この子たちの夏」に出てくる同級生の男の子もいます。子供
のままのあの顔この顔が思い出され、無性に”あの子たちに会いたい”
と思うことがあります。戦後の開放感も知らず、青春の悩みも歓びも知
らずに殺されたあの子たち。生きていたら激動の時代をどう生きただろう
かと、切ない思いにつき上げられることがあります。

 かつて、私は8月6日に広島市内に入ることを避けて、1・2日たって静
かになった平和公園を1人で歩いていましたが、市民劇場で”さくら隊を
偲ぶ会”を碑前で催すようになって6日に参加し、仲間と一緒I「あの悲惨
をくり返すことのないように。」と祈っています。

 志なかばで消された役者さんたち。同じ演劇を愛する人間として、その
悔しさを思います。

 戦争も、核も、人類を、地球を滅亡させます。あの子たち、あの人たち
が何のために犠牲になったのかと、訴えています。

NO WAR