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虚妄な平和のカタストロフ 

〜 阪神大震災を見ながら 

 


L e mal ne vient  pas  seul

災いは一人ではやって来ない。

 

神戸に大地震が起きるとは、住民達は夢にも思わなかったようだ。しかし、プレートの傷である活断層の上に街が立っていること、震度6の地震の可能性があること、これは地震学者が明らかにしていた。誰に対してなのか知らないが、朝日新聞の報道によれば、神戸市は確実に知っていた。86年に防災会議を開いて気休めに防災計画を作成したとき、震度6では対策に金がかかりすぎるので、震度5の想定で被害を少なく見積もって計画を立てたという…その愚かしさが招いた悲惨な事態を神戸市は廃墟の中で今呆然と見ているが、住民達の話を聞けば、大地震の可能性どころか、そんな計画さえ知らなかったかのようだ。神戸市とは市長と役人と議員であり、市民は無関係なところで暮らしていたのだろう1。だから、無くもがなの火災による廃墟とあんなお粗末な避難所生活が、ぼくには神戸の精神構造の反映に見えた。

 

しかし、全体を見れば、それは国の政治と防災体制の歪みなのである。防災が本来の任務でない自衛隊を頼りにするのは自衛隊の存在価値を高めたいという長年の政府の思惑があるからだが、シヴィリアン・コントロールの原則を守って、別に専任者と非常時のボランティアで構成する防災救助機関を作るべきなのだ。そこで普段から防災システムの整備と訓練をしながら危機に際して情報の収集・伝達と関係するあらゆる組織の調整と指揮ができれば、速やかな連携で無闇な混乱と第二次災害の拡大が避けられるだろう。ところが、実際はどうか ?…首相への情報伝達が遅れる。対策の決定のために閣僚会議を開かなければならない。各省の純張りが邪魔になる2。兵庸県知事は判断力を欠いて、自衛隊の出動要請を延ばす。近隣の都市との協力関係すらできていない。交通規制が行われないために、被災地が孤立化する。メディアが劇的場面にこだわり、山の手や海岸部を含めた総合的な情勢が分からない、などなど。

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1 1993年の市長選挙投票率が2043

2「官邸は情報過疎地。災害情報を含めて、各省庁は自分の得た情報を抱え込んでしまう。…」 (湧井元海部内閣首相秘書官)

災害対策基本法は原案段階では首相に権限を集中する考え方だったはずだ。それが、強い首相は困る という官庁や政党の反対で、防災は国土庁の責任ということになった。さらに、国土庁が他省庁に行動面で指示を与えられないように、権限を骨抜きにしてしまった。」(西広元防衛事務次官)

:                       27日 朝日新聞 危機管理を考える

 

                              

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欠陥都市

 


神戸は、文明開化が始まった土地の一つとして最先端を歩んできた港町である。異国風のハイカラなイメージが、行ったことのない人々にも浸透している。だが、都市形態を見る限り所詮他と同じく欧米の表面的な模倣にすぎなかったと言える。例えば、

 

1 高架の高速道路が街の中を通っている。生活環境とアーバン・ライフ(都会生活)の快適さを無視した無愛想なコンクリートの怪物に、日本人は科学技術の恩恵と明るい未来を感じて、ほとんど文句を付けることをしなかった。ほとんど、と言うのは、ぼくが知る限りただ一人例外がいて、再び、仕方なく、この批判を書いているわけだが、地震で倒壊した一本脚の高速道路を見て笑ってしまったものだ。地面の上を走る道路がほとんど壊れていないのと対照的だった。地震の多い地域では特にできるだけ高架の道路と鉄道は止めるべきだろう。

 世界で最初に高速道路を作ったのは、ドイツである。ナチスが戦争を想定して、都市が爆撃されても交通網が破壊されないように都市の外側を繋ぐアウトバーンを建設したのだった。ジェット機・ロケットなどのナチスの遺産は先進国に受け縦がれて多くの災いをも生じているが、高速道路は一般に好ましい建造物として懐疑的には見られない。だが、経済効率優先の実際の在り方を見れば、人間が住む環境に荒廃をもたらして、しかも、その事実を素直にとらえない人間を造り上げるほど、知性と感性を損なっているのだ。

 震災で受けた心の傷を癒そうという心理学の専門家達の活動は、なるほど必要な優しい配慮であるに違いない。それが新しい都市の建設に生かされるように

 

2 ところで、神戸の街は六甲山と海の間に細長く伸びている。明治時代に異人さんが山の手に家を建てたとき、日本人達はびっくりしたという。健康のためと眺望の良さで立地を選ぶなんて観念はなかったのだ。日本人はそれも近代化の過程で取り入れたけれども、ヨーロッパの都市に合った交通機関をサイズからスタイルまで性急に受け入れて街を順応させる過ちを犯した1。神戸も例外ではない。狭い土地を高速道路と三本の高架鉄道が平行に走って、必然的に過密地帯を作っている。樹木の多い公園が適当にあれば、火災の広がりを自然に抑えることができたはずである。淀川から引いた水道管が壊れる事態を予想していれば、海から水を引く装置を備えることができただろう。防災意識の貧困というより都市を作る思想が脆弱なのだ。

 

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1 戦前の哲学者和辻哲郎は、名著《風土》でバスの大きさが日本の町並みに合わないことを非難している。

 

 

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3 公園と広場がたくさんあれば、避難者がそこで少しでも人格が傷つかない仮の生活ができたに違いない。30万近い住民が快適な避難生活を送るのは、物理的にも経済的にも不可能か?いや、各自治体と国があらかじめ国際支擾をも視野に入れた準備をしていれば、そう困難ではない。あるデザイナーがかつて難民キャンプのためのさまざまな生活デザインを考える必要があると言っていた。迅速に簡単に組み立てられる不自由のないアウトドア風の仮設キャビンを真剣に考えてほしいものだ。地震は防ぎようがないが、人間の肉体と精神は守ることができるはずだ。ペットをも含めて。

 

4 地震で数え切れないほどの電柱が倒れて街路を塞いでいる惨状を見ると、やはり地面の下に埋設するべきだと痛切に思わないでいられなかった。そうすれば、電気と電話線の被害が少なくなるばかりか、火災の原因にならない。そして、きわめて重要なことだが、災害のときに通行の妨害と行動への脅威がない。ぼくは幼少の頃大館の中心街が大火で空襲にあったように燃え盛っていた夜、炎が電線を燃え伝わるのを目撃した。神戸の人達の中にも、そういう体験者がいるかもしれない。それが火事を広げた、あるいは人を傷つけた、とは断言しない。しかし、街にとっても人間にとっても危険物であることに変わりはない。日常生活においてさえ、障害物だ。電柱の設置工事を見ると、ただ穴を掘って柱を突っ込むだけなのである!金がかかるから地下には埋設しない、と電力会社は言い訳するが、住民の安全は犠牲にしよう、という意味だ。福祉や軽薄な町づくりへの関心は免罪符でしかない。

 

 危機的で無残な状況は正確に記憶されない。人間は嫌なことは想い出したくないものだ。ましてそれが一目で捕らえ切れない巨大な壁のような出来事だとしたら、距離を取って客観的に見るまで時間がかかる。しかし、だからこそ何が悪かったのか忘れない努力をしなければ、新たな文明開化はない。日本は先の侵略戦争を直視することを避けてきたので、その無反省さが国内においては欠陥都市という形で生き続いている。感心したことが一つある。被災者が洗濯できるほど神戸の街を流れる川の水がきれいだったということだ。

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編集長の追記 

粋な活動に粋な心を

 

人は何らかの主義・思想で習慣的に動いている。問題があると思うとき、それを柔軟に超える心情が粋ってものだ。理屈を捏ねて問題から逃げるのが、野暮ってもんだ。

 行政の不甲斐なさに較べて、ボランティアの頼もしさが目立つ。組織されていなかった人達が臨機応変に活動できるのは、規則に縛られないからだ。しかし、ボランティアに対する配慮が、やはり歯車仕掛けの行政にはない。軍国主義の感覚で自己犠牲的な美徳を期待するのではなく、あらかじめ予想して待遇その他を計画に組み入れておくべきだ。大学などの教育機関と会社は単位や有給休暇を認めるといい。被災地はともかく、街の商店などがボランティアに割引きするのも、なかなか面白い。ぼくは以前スタジオの無料使用券をあげる案を思いついて、実行した。災害時と高齢化社会においては《動けるボランティア》の役割が重要になるので、そんなボランティア優遇の条件を民間でも積極的に整える必要がある。これは普段の自治活動をも盛んにするだろう。いずれにしても、ボランティアが行政と制度の欠陥を補う便利な存在であると腹の底で考えられたら、世の中の改善はありえないな。ボランティアが慈善の意識に酔っても、事情は同じだ。自分の人間性を向上させるという意思がなければ、同情はゴミと一緒に片付けよう。

 

HHJ  VOL.35   1995.2.12

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                           

 

 

 

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