仮面について

米代川ドキュメンタリー撮影レポート 1993

Report  2

 

 

 

 

 

 

 


                              レポート 3

 

                                                                                             HHJ 1014 VOL.22

支配者に保護された物語

911日(土)カメラマンの工藤君が多忙なので、ぼくが撮影することになった。普通はオートでいいが、マニュアルで調整しなければならない場合がある。それで、簡単に練習して映り具合を見ると、非常に鮮明な映像だった。しかし、前に撮ったヴィデオ・テープで映していたことに気づいて、がっくりした。鵜川君と再び花輪鉱山の上流に行き、消してしまった古い廃坑とパイプを撮影する。花輪鉱山の事務所は閉まっていたので、素通りして、川からあまり離れて撮影したくないが、尾去沢鉱山へ。

 尾去沢鉱山は今マインランドとして観光の名所になっている。ぼくは入ったことはないが、繁栄していた頃の鉱山は漠然と記憶に残っていて、〈購買〉の建物が見えると、懐かしさを感じた。〈購買〉はスーパーマーケットみたいなもので、昔は街の商店にない新しい商品が並んだらしい。鉱山はどこでも、進んだ文化のさまざまな影響を与える。そのいい例がアトリエにある。地下室を改造したとき、ぼくは食堂の階段の欄干の色を想い出して、自分でペンキを混ぜてスモーク・ブルーを作ろうとした。青、黒、白…しかし、まだ他の色を混ぜなければ、あの色は出ない。想像してみたが、分からないので、父に訊くと、黄色だ、と言った。欄干の青灰色は昔、尾去沢鉱山の〈購買〉の中で見つけたのだそうだ。父が欄干に塗り、息子がアトリエの扉の取手や窓枠に塗って再生させ、訪れる若者達が〈活かしてる〉と感じた、ささやかな色の歴史。そこに何が潜在しているか、見抜くのは難しい。

飛鳥時代(和銅元年・西暦708年)、慧眼な誰かが尾去沢で銅を発見した。だんぶり長者の伝説に疑問を感じたぼくは、物語の中に鉱害が潜在していると考えた。しかし、これは発見ではなく、ドキュメンタリーのテーマで環境汚染という先入観を持ったための妄想かもしれない。真実かどうか、ぼくはまず図書館で正確な伝説を知ることにした。《日本の伝説》によれば、こうだ1。  

                                   

 小豆沢(あずきさわ)に老父と一緒に住む若者が、ある日、比内の独鈷(とっこ)から夢のお告げに従って来た若い娘と出会って夫婦になる。二人は同じ夢を見る。川上へ行けば、金剛の恵みがあるという。田山の奥の平間田に移り住んで、しばらくして、眠っている若者の鼻にとんぼが止まる。彼は美酒を飲んでいる夢を見た。妻が、とんぼが止まっていたと言うので、後を追うと、松の岩陰に〈香り高い霊泉〉があった。〈この霊泉の水は薬効もあったらしく〉〈当然、夫婦は村人の敬慕と信望を集め〉、長者となる。そして、栄えに栄えて、屋敷で炊く米の研ぎ汁が川を白く染めたので、その川は米白川と呼ばれるようになった。

 夫婦には子どもがなかったが、やがて神様から娘を授かる。長者の号は朝廷の認可がなければ名乗れなかったので、彼は〈栄誉〉を得るために娘と宝物(黄金、毛皮、織物等)を引き連れて、狭布(きょう 鹿角の古名)の里から京の都へ行く。頃は、継体天皇の時代。娘の秀子(しゅうこ)は美貌ゆえに采女(うねめ)として帝に仕え、吉祥姫の名を与えられる。やがて長者夫婦が死ぬと、姫は帰って亡骸を小豆沢の地に葬り、帝に嘆願して大日堂を建てた。裏の台地に、彼女が生涯を終えた吉祥院と樹齢1400年という銀杏の老樹がある。

後に、帝と吉祥姫の間に生まれた五ノ宮菟()皇子が配流の身になって、この地で悲憤の生涯を閉じた、という話が伝わっている。亡骸は、小豆沢の背後の五ノ宮岳の山頂に葬られた。

 

1 日本の伝説:世界文化社

 

だんぶり長者の伝説が小豆沢の大日堂の縁起(寺社建立の由来)であることに、ぼくは驚いた。写真で見た舞楽の黄金の面が、日本の伝統的な面と違うので、昔から気になっていたのだ。それにしても、この読物風に書かれた本では他の伝承記録と違って〈酒の泉〉とは述べられていない。〈金剛〉とは金属中で最も硬い物の名前だが、見つかったのは〈霊泉〉である。ある素朴な民話は、酒の泉を発見した後で黄金の泉をも見つけたと付け足しに言っている1。歴史からしても、物語の展開からしても、その方が合理的である。国家的事業の鉱山なら、朝廷が物語の中に出て来ても不思議はない。

 しかし、その民話と終始田山の物語である南部藩の壇毘尼(だんびに)長者本地の伝承では、歴史上の特定の時代を明確に語ってはいない2。だからこそ、民話と言うのだが、それに反して鹿角の伝承は立派な伝説になっている。

継体天皇は越前(福井県)の出身で、6世紀前半鉄資源の豊富な琵琶湖東岸を本拠地にして、即位した。6世紀前半以前まで日本は砂鉄以外の製鉄原料を中国・朝鮮から輸入していたが、それ以後は岡山・出雲・滋賀と福井県境において鉄鉱石の採掘とタタラによる製鉄が行われた3。鉄器は農業の発展に役立っだけでなく、武器として支配権を支えることは言うまでもない。琵琶湖の周辺は日本海側からの物資輪送のルートでもあり、海路を通して秋田や青森とも係わりがあった可能性がある。公式の歴史では後に(658年)蝦夷征伐をした安倍比羅夫は越国(新潟県)の長官である。

こうして見ると、継体天皇の名が鉱物資源の豊富な北秋田地方の物語に登場するのはかなり自然な結び付きである。しかし、鹿角のだんぶり長者伝説では黄金などの金属資源が発見されたとは一言も語られていない。伝説の語り手達は辻褄を合わせる合理的な精神を少しも持っていなかったのか、それとも現代と違って郷土の《特色》を自慢する愛郷心が足りなかったのか・・小豆沢に近い米代川の遊歩道で見た伝承によれば、長者は開墾も行なったという稲作の普及拡大記念のような筋がある。鉄製の農具が行き渡ったとすれば、その伝承ではただ〈天子様〉となっているが、やはり継体天皇の時代の物語に似つかわしいかもしれない。だが、開墾に〈四人の不思議な力を持つ頭〉がなぜ登場するのか?

                                                                                                             

ところで、小豆沢の大日堂は継体17年に建立されたと伝えられているが、鹿角市史によれば、実際は10世紀から11世紀の間(平安時代後期)に〈中央政府の政策によって〉建てられたようだ。だんぶり長者伝説は、〈遅くとも室町時代〉には既に成立していたらしい。どのような根拠で成立の時期が限定されるのか、それは書いていない。平安・鎌倉・室町時代において、北秋田地方の鉱山はどんな状態だっただろうか?仮説に従えば、伝説が完成されるための条件が整っていたはずだ。そして、鉱物資源を誇りに思う民衆が地元にいたわけがない。

 

1 日本の民話:角川書店  2 日本の民話:未来社 だんびにとはトンボのこと。   

3 大系日本の歴史2:小学館 和田萃 著 

 

伝説は、一般に出来事や現象の説明をするものだ。北秋田の人々は川が白く染まるのはなぜか、解明して後世に言い伝える必要に迫られただろう。だが、多くの神話・伝説がそうであるように、人は生活の中の身近な事物を利用して隠喩的に想像力を働かせる。表現が抑圧されていれば、なおさらだ。川が白く染まったのは、酒の泉を見つけた長者の屋敷から米の研ぎ汁がたくさん流れたせいだ…だから、米白川と呼ぶのだ…と。仮に〈yoneshiro〉の名称が、あるいは単に〈shiro〉がアイヌ語に由来するとしても、漢字を当てる場合は選択そのものが主観による対象の本質の解釈であり、説明である。能代〈noshiro〉は、大和朝廷に帰順してから淳城(ぬしろ)と記された。米と白が選ばれたのは理由がないことではない(もっとも、米白川という名称が先にあって、その由来として民話が発生していたとも考えられるかもしれない。民話と伝説の舞台である田山には平又と長者前という地名が残り、たぶんそういう〈歴史〉のせいで、近くを流れる根石川が5万分の1の地図では米代川の源流として記されている)。

 鉱物と米は社会において対立しやすい産物である。鉱害と米の研ぎ汁は、昔は、反対の情念を惹き起こす事物である。鉱害は忌まわしく、米は生存と安楽な暮らしに欠かせない。しかし、イマージュは夢のようにそれらを一つに溶かし込んで、巧妙な製品を作る。苛酷な状況を蔽い隠すと同時に表現しながら、嫌悪と願望という相反する欲求を満足させる統合的な物語が出来上がる。酒は、白濁酒と思われるが、この物語ではイマージュの触媒の役割を果たしている。つまり、米から酒を造る過程に金属の精練が暗に匂わされているのだ。これは最初に伝説に疑問を感じたとき、ぼくが想い浮かべたことでもある。四人のかしらが持っていた(不思義な力)とは、おそらく金属の新しい精練技術のことだろう。

隠喩とイマージュについては、2月号(VOL 14)のDépaysée(異郷にある)E〈傘と蝙蝠と迷路〉を参照してもらいたい。関連する箇所を取り出すと、

 

 {形や性質の類似による連想で、隠喩は他のある全体との同一性を指示する}

 {傘が蝙蝠になるとき、人は迷路的な状況にある}

 {蝙蝠がイマージュあるいは幻覚であること、現象の解釈が妄想であることは言う

  までもない。しかし、それが外界と内面の統一としての表象だとしたら、真実そ

  のものである。彼は現に自分が生きている世界を語っているのだ。} 

}           } 

 しかし、川が白く染まったという話だけで環境破壊を記録せざるを得なかったとすれば、伝説が完成した時代の北秋田地方はファシズム並みの権力に抑圧されていたか、人々が呑気で臆病だったことになりはしないだろうか?だんぶり長者の物語にはそれらしい恐怖と不安の影が微塵も、いや、全然ない。これはたぶん小豆沢の大日堂が中央と地方の権力者達に保護されていたことと関係があるかもしれない。縁起は、寺社の権威の正当牲を証明するものだから、その歴史物語に悪があっては困るのだろう。

 

 

 


ハイウェイの

向こうに

錦木塚の木立

 

 

 

 

鹿角に伝わる有名な二つの伝説は、どんな関係にあるか?

だんぶり長者の物語が天下に遍く認められた明るく雅やかな伝説なら、米代川を10km余り下った十和田南にある錦木塚の悲恋の伝説は、そのネガ・フィルムのようなものである。今は川との間を高速道路のインターチェンジが巻いて奇妙なコントラストを見せているが、それはぼくが覚えたおそらく最初の、現地で聞き知った伝説だった。しかし、ドキュメンタリーのテーマとは無関係なので、車から錦木塚を眺めただけだ。米代川はその辺りで大湯川と小坂川と合流して西にほぼ直角に曲がって、広々とした流れになる。

 撮影の様子は後回しにして、錦木の悲恋の伝説がなぜネガ・フィルムなのか簡単に話そう。これも有名だが、改めて本に書かれた物語を読んでみると、意外な筋があった。つまり、錦木売りの若者の愛が叶えられなかったのは、娘の父親が身分違いを理由に反対したばかりでなく、機織りの上手な娘が五ノ宮岳から飛んで釆て幼児だけをさらって行く大鷲から幼児を守るために身を清めて白鳥の羽の着物を織っていたためなのだ。五ノ宮岳とは、継体天皇と吉祥姫の子菟の皇子が葬られたとされる山であり、元来は日の神の信仰で崇められていた貴い場所である。そこから恐ろしい大鷲が襲来するとは、どういうことなのだろうか?仮説を適用すれば、真相は容易に分かる。か弱い幼児たちが米白川の上流から流れる害毒で病気になったということである。害毒は、呼吸器障害などを起こす硫黄と酸素の簡単な化合物である亜硫酸ガスの可能性がある。里人が恐慌状態に陥るるのも無理はない。 

ぼくは、これが伝承された鉱害の明らかな証拠だ、と考えた。伝説の出拠は錦木山観音寺縁起文とされ、「孝徳天皇 大化元年(645)導師恵正法師 敬白」の署名があったという。ところが、本にはその後に〈五ノ宮すなわち玻離(はり)王子が〉と書かれている。縁起文によれば彼は蘇我氏に破れた物部氏と敏達(びだつ)天皇の処断で配流されたが、都に戻ったとき、狭布の細布と砂金を献上してその由来を語り、勅願によって寺を建てた。同じ五ノ宮でも、この話では狭布の細布と悲恋を都に宣伝して名所にした恩人になっている。試しに古事記と日本書紀を調べると、継体天皇の子に阿豆(あづ)王・厚(あつ)皇子という小豆沢の名に似た王子がいる。継体の孫である敏達天皇の項には小張(おはり)王・兔(うさぎ)皇子という王子の名が見える。時代も名前も歴史に照応するように思えるが、同じような境遇で正反対の将来を生きた〈五ノ宮〉の存在、これは聞く者にとって紛らわしい伝承である。だが、混乱を避けるために曖昧な歴史との類似に惑わされないで、後世に残された伝説そのものを考察してみよう。明暗の対照的な二つの伝説が、五ノ宮である二人の王子(菟皇子と玻離王子)で繋がっているのは決して偶然ではない。それはなぜか?要するに、先の五ノ宮の霊を鉱害の寓話で犯罪者にして裁いたので、その霊を救って崇りが起きないようにするために同じ名前の同じような境遇の王子に《忘却からの救済者》という名誉を与えたのだ。〈五ノ宮〉は、それで鉱害の罪の償いをしたわけである。

 優れた物語の構造は作者の理念あるいは思想によって内在的に形成される。内在とは事物や状況の中に住むことで、内容と構造・形式の間に緊密な関係が成り立つ。錦木の悲恋の伝説の特異な構造は、インドに起源を持つ仏教思想がなければ造り上げられなかっただろう。そこには〈五ノ宮〉の輪廻転生と鎮魂がさりげなく語られていて、里人たちとともに被害者になった男女の悲恋にふさわしい物語になっている。

 ところで、舞台である狭郡(きょうのこおり)の名は娘の祖先、都から郡司として下向した狭太夫(さなだゆう)の一字を取ったものだという。狭は旧い書き方では〈けふ〉と綴って、平安時代に錦木塚の歌を詠んだ能因法師も、〈けふの細布〉と記している。しかし、いつの間にか細布の布が付いて狭布と書き表わされるようになった。細布で有名になったためか、狭布の細布と敢えて同義語を繰り返すのである。〈五ノ宮〉と同じく、ここでもまた同一の反復。だが、意識を変えれば、狭布という綴りは同音の〈恐怖〉という言葉を響かせて、狭布の細布に覆い隠されていた恐怖をかいま見させる…伝説の中の恐ろしい事件との奇妙な暗合だ。

 歌枕になるほど古来から愛された伝説でありながら、発祥の地にあったとされる錦

木山観音寺は、やはり小豆沢の大日堂と対照的に南北朝の争乱期(1362年)毛馬内(けまない)の豪族に焼き打ちされて、二度と復興されることがなかった。

 

鹿角に伝わる二つの伝説については、まだ語らなければならないことがある。しかし、今はドキュメンタリー撮影の話に戻るとしよう。伝説から約1400年後に時間を早送りしてみると、撮影班の乗った4WDのワゴンは、大館へのバイパスを走って色気も何もない錦木橋を越えて行く。次の石野橋で再び米代川を写すと、鵜川君が流れを指差して言った。

―あ、鳥がいる。

しかし、注意してみたが、ぼくには見えない。鵜川君は鳥が好きで非常に詳しいので、鳥の姿に呆れるほど敏感だ。何か本能的に、網膜が鳥の映像を捕まえるような感じだ。対岸の石野の集落を通って、小真木鉱山の跡へ行くと、そこでも素早く鳥の映像を感知した。彼がまた教えるので、その方向にぼくはカメラを向ける。五位鷺が遠くで流れの中に立っている。悠然とした五位鷺の姿は、尾去沢の近くで2度も撮影し損ねていた。今度は群れでなく、一羽ずつ孤独に離れている。なかなか撮影に適した位置に入らないが、やっと青空を舞う一羽の見事な飛翔の軌跡を追うことができた。

 市境を越えて、鹿角を後にして大館に入る。一抹の感慨が湧くのは、大袈裟に言うと、鹿角・大館が日本のアルザス・ロレーヌ地方だからである。フランスとドイツが地下資源の領有を巡って激しく戦ったように、北秋田の奥地は古代から近代まで何度も戦火が渦巻いた。資源が搾取されるだけで地元に形として反映しなかったのは残念なことだが、鉱山が廃れてからやっと反省され出したようだ。

 葛原(くずはら)は、古い吊り橋のコンクリートの支柱と花輪線の無人駅が川縁にあって、絵になるところである。ぼくは藤の花が川に垂れ下がる初夏の頃が気に入っているが、秋の初めでも米代川には珍しく情緒がある風景だ。撮影が済むと、ぼくは近くでバケツから何かせっせと捨てている老人を見た。細切れの肉片だった。烏などの鳥に食べさせるらしい。なるほど橋の上に鳶が舞っている。これは環境汚染かどうか、ぼくは少し考え込んだ。しかし、気持ちが悪いことに変わりはない。

 十二所に行くと、水質がかなり低下する。町外れの堰の前の緩やかな流れを撮った。撮影の数日前、撮影機材を借りている南部測量の流量観測を手伝ったとき民家の老人がこんな意外な話を語ってくれた。

―子どもの頃は、きれいな川だったよ。よぐ泳いだものだ。しかし、昭和11年に尾去沢鉱山の、鉱滓を溜めるダムが破れで、ズリ(鉱滓)が大量に米代川に流れで、その辺りさ溜まった。それ以来、川の水が濁ってしまい、誰も泳がなぐなったなあ。

―堆積したズリは、どうしたんですか?

―そのままだよ。川底がだいぶ浅ぐなってる。

 尾去沢鉱山がズリを除去しないことに、ぼくは憤りを感じた。住民が非難したかどうか聞こうと思ったが、中国侵略が本格化する日華事変の直前、そんな自由があったはずがない。ぼくはただ貴重な事実を打ち明けてくれたことに感謝した。沈んでいるズリのせいで、カーキ色の濁りが何となく異様に思えた。

これは、米代川の歴史の象徴的な出来事ではないだろうか。ぼくは人間社会の陰鬱な底流に浸されながら、撮影を続けた。川の流れの無関心さは、こういう時でさえも心を慰めてくれる。

 

曲田(まがた)はハリストス正教会聖堂で有名だが、ぼくには通り過ぎる度に徽かにジャズの旋律が蘇る。大学生の頃、列車から眺めていたときにラジオから響いたソニー・ロリンズの《月光値千金》。彼はあまり好きでないが、その時はテナー・サックスの低い調べが静物的な沈黙のあるエキゾチックな情景に合っていた。吊り橋は支柱だけが残り、花輪線が通る対岸にある支柱は蔓の葉に埋もれて辛うじて形が浮き彫りになっている。撮影を終えると、橋の跡へ向かう畦道に年老いた農夫が立ち止まって、何をしているのかと尋ねた。ドキュメンタリーの制作だと知ると、興味を示した。

―テレビで放送するのが?

 いや、という答えに少し残念そうな表情を見せたが、老人は撮影班に共感を覚えたようだった。あるテレビ局が非常に関心を示しながら後援すら拒んだことは、理解に

苦しむことだ。

今日から10月だが、スタッフが集まらないので、撮影はそこで止まったままだ。米代川のちょうど半分の地点で。ドキュメンタリーを2部に分けて、とりあえず半分だけ完成させようか…                           

 


ハリストス聖堂

 

 

 

 

 

 

 

魚がいない川

1013日(水)花輪に住む関新さんが、ドキュメンタリーの原版を見て、源流の細水(ほそじ)というところに昔鉱山があったと教えてくれた。硫黄を取っていたようだと十和田宮林署の職員が話した場所である。どんな鉱石を採掘していたか、関さんも知らなかった。

 ―10年前だったか、うむ、70年代の終わり頃。もう採掘はしていなかったが、掘り出した土の堆積が崩れるのを防ぐために、回りにコンクリートの堤防を造ったんだ。―山の下の沢ぞいにも、今見えるが、護岸用らしいコンクリートの壁があるよ。樋から水が流れ落ちてる。たぶん毒性の水だ。

―うむ、雨が降ると、上から流れ出す。

 彼は、魚がいたかどうか、かなり気にした。源流では、ぼくは見ていないが、花輪鉱山の前に釣人がいた…

―細水の辺りに、確か墓所があったな。昔は人が住んでた。おれの祖父さんも婆さんも働きに行ったんだ。    

 例の川の中のコンクリート遊歩道は、日曜日のそぞろ歩きのためではなく、山の堤防工事のために造った臨時の道路で、関さんも測量のために乗用車で行き来したそうだ。もっと古い道路だと思っていたが、と言うと、水が流れているから23年で壊れるんだ、と彼は言った。

―キャンプにいいなあ。

―でも、飲み水は持ってかないと、駄目だな。ぼくは飲む気がしなかったよ。

pH(ペーハー)を調べないと、なあ…誰か、やってるのかな?

彼は、瀬ノ沢川を源流として選んだことに多少不満だった。ぼくは、いちばん長い距離を撮ってみただけだ、と言った。彼は、米代川を初めから終りまで流れを追って撮影するという単純な構想に感心していた。