HALF AND HALF JOURNAL
HHJ
無意味な破片
信号と記号
☆ ☆ ☆ ナモネ氏−HHJが食料品を具体的に取り上げて褒めたのは、後にも先にもジャスコのバターだけだ。最近パッケージが変わったが、塩分が濃すぎて、クリーミーな味わいが失われた。 編集長―生産者が高崎市の牧場から北海道八雲町の牧場に代わって、おまけに製造会社がジャスコでなくなった。バターの箱に記されてるのを読むと、わざわざ原料の上に説明書きを付けて〈クリームと呼びます〉と消費者に嫌味を言ってるじゃありませんか。バターの原料はどこでもクリームに決まってるんだ。 特派員―バターよりも味噌が好きな人なんじゃないですか?しかし、この問題は何か暗澹とする想像を引き起こしますね。単純に考えて、ある人間が塩分を前よりも多めにクリームに混ぜるよう指示したんですよ。製造過程で、ね。 編集長―おお、それくらい確かな推理はないぞ。 ナモネ氏―我が特派員も、やっと編集長の明晰さに近づいたなあ。 特派員―そして、他の人間がそのバターを買って口に入れるんです! 編集長―ナモネ氏の顔色が、ちょっと変化してきたね。 特派員―この新しいバターを記号として見れば、過去の食料品毒物混入事件を指示する、と言っていいですね。そして、そこから未来に起こりうるという恐怖が迫って来る。想像力が強ければ、その記号はとめどなく不安な迷走を続けるでしょう。 編集長―74号の〈仮面について〉に書いた記号の時間性を応用すれば、そういうことになるね。 ナモネ氏―私の脳神経回路でも不安な迷走が起きてる。どうすれば、止まるのかね? 編集長―そうですねえ。一番いい薬はスポーツじゃないかな。精神が弛緩してる人やノイローゼの人は主体性を失って、記号のコントロールが難しい状態にあるんです。脳神経細胞(ニューロン)を伝わる電気信号は感覚器官の情報を〈A=A′〉と固定して送るけれど、ニューロンが接続するシナプス間ではその情報は化学伝達物質に変換される。きわめて自由で生命的な物質なので、個性の違いはシナプス間で現われる。〈A→B〉とか〈A'→]〉に変わる。これは記号と似た働きで、さまざまな繋がりが起こりうるので、創造性の領域ですね〔1〕。しかし、スポーツの動きにとってこの不安定な反応は危険です。機械装置と同じ正確な情報伝達のトレーニングが、スポーツだから。 ☆ ☆ ☆ HHJ
VOL.76 2000 10.12 1 参考 Henri Bergson : Évolution créatrice (創造的進化) 岩波文庫 |
朝の食事 描かれた記号システム
☆ジャック・プレヴェール(Jacques Prévert)はシャンソンの〈枯葉〉で有名な詩人だが、〈朝の食事〉の中では愛の終わりを描いている。一人の女がテーブルで男が珈琲を飲む様子を見つめている。 彼は珈琲を入れた カップの中に 彼はミルクを入れた 珈琲の入ったカップの中に 彼は砂糖を入れた ミルク入りの珈琲の中に 小さな匙で 彼は向きを変えた 彼はミルク入りの珈琲を飲んだ そして彼はカップを置いた 私に話しかけないで ---(略) ありふれた情景である。カップの中に珈琲を、珈琲の入ったカップの中にミルクを、ミルク入りの珈琲の中に砂糖を、そして、小匙でそれらを混ぜるのは当然である。環境の中の事物はそんな風に一定の秩序に従って成り立ち、役に立つ。そのために造られている。世界中のどこでも実際その通りになっている。なぜなら、事物と道具には方向性と帰属性があるからである。これがいわゆる意味(le sens)である。有意義の全体がそれを限定する。 有意義の全体は、事物にふさわしいその指示連関に従って歴史的に形成された慣習によって配慮され整えられている。 日本では《道具》という言葉に道が走っている。昔の人々は道端で道具を使ったのだろうか?いや、道は何らかの方向性を持つからである。それは我々をどこかへ導き、道具もまた目的のために他の事物や空間へ連れて行く。それぞれの意味(方向)に従って我々は普段事物と道具を用いる。もし人が帽子の中に珈琲を入れて飲んだら、彼はたぶん笑われるか馬鹿と思われるだろう。[このことについては笑いとシュールレアリスムの項で述べる。] ぼくは、これがモラルの根拠だと考えている。 有意義の全体は諸感覚を通して人間存在の精神を構成し、言語の構造に対応している。さもなければ、精神は環境を反映しえないだろう。 女が黙って見つめるのは彼女自身の心象風景で、そこには自我がない。つまり、彼女は疎外されている。未来が環境の変化という暗い色で現在を染めている。環境は鏡のように精神を映す。 事物は一般的な意味の他に個人的な意味を持っている。この珈琲茶碗は男と一緒に飲んだものである、等々…過去、現在、未来が時計(つまり、公共的な時間)と無関係に意識のスクリーンに映る。 こうして環境は単なる空間と違って意味の濃度をより多く持ち、気分や感情と深く係わることになる。 ☆ ☆ ☆ 環境と精神 3
1986.2.3 雑誌《とろんぷ・るいゆ》 注: 原文はフランス語で書かれた。〈有意義の全体がそれを限定する〉で終わる前半は、ハイデッガーの実存哲学《存在と時間》の記号論の優しい解説であると言っていい。 フランス語の詩の全文と朗読 ▼ VIVE VOIX ---Déjeuner du matin ★ もっとよく考えるために EN PASSANT HHJ 2002.12 Vol.89 |
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仮象としての記号システム [偶然のフランス語訳はéventualité] |
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EN
PASSANT HHJ 2003.2 Vol.90 |
者 然 い 使 う と 偶
☆他の中には非常に素朴な人間がいるもので、握り拳大の石でトタンの箱を叩きながら、木の枝に止まっている小鳥を見上げる。何をしてるのかと訊くと、あの鳥を取るんだ、と答える。 ―こうやって、さ、この右でトタン箱を叩くと、鳥が落ちてくるだよ。 阿呆な、と思わず笑ってしまう。すると、目の前に黒と白の小鳥が落ちて、笑いを止めた。 ―ほら、な。言った通りだべ。万物はすべて繋がってるんじゃ。 これは冗談だが、呪術や原始宗教の起源に偶然が大きな役割を果たしたのじゃないか、とぼくは想像している。偶然が現れるや否や、世界は無際限に広がってしまい、神様だの、霊だの、という存在が信仰される。そういう言葉が個人の中で息を吹き返すと、理性はなかなか出る幕がない。 そうならなくても、悪い偶然の場合、一般にノイローゼに陥る。無関係な出来事の間に、線が引かれる。因果関係、性質のさまざまな類似、時刻の一致…それは何かを語っている、重大な意味がある、陰険な意思が潜んでいるのだと不安を感じる。それは妄想かもしれない。よくあることだ。しかし、《偶然=無意味》に見せかけて疑似精神病の綱を張る狡猾な人間たちがいない社会だと断定するわけにもいかない。なぜなら、《偶然は罪にならない》からだ。 ☆ HHJ VOL.32 1994.10.11 MODE ACTUEL MODE ACTUELLE |
ヒッチコックの映画を参考に
関係の網の中で
☆インディオがさっぱり文化生活を送ろうとしないので、ある宣教師が旧態依然の彼らに《盗む》ことを教えようとした。盗むという行為は所有を目的としているため、ものに対する欲望が刺激される。それで無気力と現代文明への好奇心のなさが消えるだろうという思惑なのだろう。 イブがリンゴをおいしそうに感じたときからすでに盗むという行為は始まっている。人間の知識も盗みと同じ性質を持っていて、自然から絶えず原料を奪い、生活のために役立てる。文明は確かに盗みの所産である。だから、インディオは言う。〈我々は快適な生活を送っている。人間を含めた生物はみな快適さを求める。したがって、現代文明を吸収する必要はない。〉〈君たちには他の者になろうという願望が欠けているんだ。新しい衣装が女を変えるように、ものを持つことは事故の可能性を広げるのだよ。〉 しかし、インディオはベンツよりもベンチを好むのである。〈あなたたちは異質な精神をそれが産み出した素材と形式(食料品、機具、電気製品、音楽、などなど)で経験させる。ところが、事物は関係の網の目によって有用性をえる、と我々は雑誌《とろんぷ・るいゆ》第2号で教わった。だから、例えば、自動車を手に入れても、ガソリンがなければ価値がない。ガソリンがあっても、広い道路がなければ動かせない。事物がひとりでに増殖してゆく。しかも、それは個人が自由にしえない世界で、安定しない匿名の不透明さがある。これじゃあ、自己の可能性どころか事故の可能性ではないでしょうか?〉 ニーチェは、所有は隷属につながる、と《人間的な、あまりにも人間的な》で語っている。 ☆ とろんぷ・るいゆ VOL.3
1986.3.23 描かれた記号システム ▼ EN PASSANT ; 森の木から銅像へ/知性の映画仕掛け/空間の着こなし |