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 向井(バチェラー)八重子  明治17年(1884)6月13日〜昭和37年(1962)4月29日
 アイヌ民族出身の伝道者であり、歌人。

<生い立ち> 
 北海道伊達町有珠にアイヌの豪族である父・向井富蔵(アイヌ名モロッチャロ)、母・フチッセの次女として生まれた。幼名フチ。きょうだいは、上からチミ、フチ(八重子)、トヨ、山雄、富次郎、チヨの6人である。

 八重子の父はバチェラー,J.がはじめて有珠を訪ねたときからの知り合いで、八重子は幼少のころからバチェラーによくなつき、7歳のときバチェラーから受洗した。八重子の母は、受洗を勝手にしたと叱ったが、父は八重子の受洗を承認した。  父・向井富蔵は、当時のアイヌ人としては文字の読み書きはできなかったけれども、相当な見識を持ち、時勢を見る目もあり、財力も胆振(旧北海道のこと)国第一位を占めていた時期もあった。進歩的だった。

 八重子が11歳の春、父が死去した。病床で洗礼を受け、自分の葬儀をキリスト教で行うことを遺言にして、その通りに実行された。八重子の村でははじめての出来事だった。父の遺産である家屋敷を奪われた。小野正次郎によって騙された。裁判は小野の勝利だったが、八重子たちの住んでいた伊達町の人々は不正であることを知って、小野正次郎はまったく信用を失った。八重子の弟・山雄が伊達町ではなくてはならない人物となって町会議員となり、父に代わって活動した。

 八重子は、13歳のときにバチェラーを頼って札幌に出て、バチェラーの経営する「アイヌ・ガールズ・スクール」で学んだ。さらに東京の香蘭聖書学校(香蘭女学校)に進み、18歳のときからバチェラーの所属する聖公会の伝道師としてアイヌ伝道に活躍した。

 八重子は、明治39年(1906)10月30日バチェラー夫妻の養女となった。その契約書に「向井フチハ養父ジョン・バチェラー,養母ルイザ・バチェラーノ精神ヲ承継シテ同胞ヲ救ハン事ヲ生涯ノ勤メト為シ且ツ之ヲ永遠ニ伝フル事」とあり、その通りの生涯を送った。八重子22歳、養父53歳のときだった。すでに父を失っていた八重子の実家の戸主は弟・向井山雄で、山雄の親権者として実母・向井フチッセが捺印、という書式である。

 バチェラーは、八重子の弟・向井山雄の才能をも見込んで、立教大学文学部神学科を卒業するまで学資の支援をした。卒業した山雄は、大正7年(1918)、執事としてアイヌ伝道を開始したが、大正10年(1921)、按手を受けてバチェラーの後継者として活動を開始し、昭和36年(1961)有珠の自宅で他界した。

 八重子の末の妹は長じて聖公会牧師 岡村国夫司祭の妻として教会保育園の保母として尽くした。そのころの幼稚園運営に苦労していることを八重子の友人で歌人の 違星北斗が日記に残している。 『ジョン・バチェラーの手紙』に掲載されている。

 明治41年養父母とともにシベリア鉄道を経由して養父母の故郷である英国に行き、カンタベリー大主教から伝道師として任命を受けた。滞在中、各地で講演を行った。帰国後、北海道の幌別、平取の聖公会教会で伝道活動を展開した。

 明治45年(1912)7月になると、養父と兵藤伝道師とともに樺太伝道旅行にも出かけた。大正8年(1919)ごろから美唄炭鉱、夕張炭鉱に働く朝鮮人の伝道にも養父とともに従事した。そのころ養父のバチェラーは、朝鮮人伝道を開始すると同時に朝鮮語を学んでいた。

 大正7年(1918)宮本百合子が来道して八重子の紹介でアイヌ部落を廻った。
 社会的経済的に恵まれた家庭環境で過ごしてきた百合子が、どのような思いで八重子からアイヌ部落の紹介を受け、またどのような会話が二人の間でなされたのか、興味が沸くところである。

 百合子が17歳で「貧しき人々の群」を坪内逍遥推薦のもとで『中央公論』に発表した下地に、祖父中條政恒が心血を注いだ安積開拓と重なり、その延長線上にアイヌ人と北海道開拓が結びつくのだろうか。北海道開拓は、日本人にとっては開拓であっても、先住のアイヌ人の立場からは日本人の侵略であろう。

 バチェラーは昭和3年(1928)に自叙伝『我が記憶をたどりて』を出版したが、これに序文を寄せたのが長年の交流を続けている徳川義親侯爵であり、原文のローマ字を日本語文字に清書したのが得能松子である。彼女の夫・佳吉は道庁の内務部長時代にバチェラーによってキリスト教信仰に導かれたキリスト者で、のちに 岩手県知事をつとめた。夫妻はバチェラーが離日するまで細やかな面倒を見た。本稿とは別内容だが、岩手県知事時代に、宮沢賢治から一時恩給請求書の申請があったことが『岩手日報』ニュースによって明らかになった。ちなみに、次の内容である。

  「宮沢賢治が大正15年に30歳で県立花巻農学校を退職する際、得能佳吉県知事(当時)に提出した「一時恩給請求書」1通と、添付した履歴書2通が盛岡市内丸、県盛岡地区合同庁舎の文書庫で見つかった。各書類には賢治が大正13年に出版した詩集「春と修羅」に押した検印と同じ「宮沢」の印鑑を押しており、73年前に本人が申請したとみられる。一字一字丁寧に書いた字体となっており、従来の崩した字体を知る賢治ファンの関心を呼びそうだ。」


 18歳から養父に従ってキリスト教伝道に励んできた八重子は、家にいては英語、アイヌ語そして日本語をうまく使い分けて訪問客やルイザ夫人の通訳などをしながらアイヌ人伝道に励んだ。このころから同族の悲惨な状態に心を痛め、折々に詠んだ短歌がたまっていった。他人に見せるのは気恥ずかしいが、さりとて捨て去るのは惜しい気がして保存していた。それが金田一京助の目に触れ、昭和6年(1931)4月10日『若きウタリ(同族)に』という歌集になって出版された。これに序文を寄せたのが金田一京助、佐々木信綱、そして新村出の3博士であった。

 それだけ八重子の交流範囲が広かったということだろう。

 昭和11年(1936)4月、養母のルイザが死去し、札幌円山墓地に葬った。ルイザは42歳のとき、31歳のバチェラーと明治17年(1884)元旦に結婚式を東京英国大使館で挙行した。この年の6月13日に八重子が有珠で誕生したのである。

 養父は昭和15年(1940)秋、養父の姪アンデレスとともに日本を去りカナダに渡った。養父は、昭和19年(1944)4月2日、故郷のサセックスで脳溢血のために91歳で死去した。アンデレスが最後まで世話をした。養父91歳だった。

 八重子は養父・バチェラーの帰英後、弟の向井山雄司祭が牧していた有珠のバチェラー夫妻記念教会堂傍らの自宅でバチェラーの残していった愛読書250冊および遺品を守りながら一人で静かにくらしていた。たまたま昭和37年(1962)4月、八重子がかつて面倒を見たことのある韓国人からの招きで関西方面に旅行中、京都で急逝した。弟を天国に送った1年後のことだった。

 77歳。生涯独身だった。棺を閉じて人事が明らかになるように、地上の向井八重子の生涯はまことに立派で、前を向いて走ろうではないか、という聖書の教えどおりに天国に凱旋した。真の国籍である天国で神の祝福と両親との再会に喜んでいる八重子を想像すると、心が和む。
<やりかけ>
出 典 『アイヌの歌人』 『ジョン・バチェラーの手紙』 『キリスト教人名』 『女性人名』

アイヌモシリ年表 http://www.alles.or.jp/~tariq/kampisosi/historyTeeta.html
http://www1.accsnet.ne.jp/~sugi-m/ainu/ainubkc.html

香蘭女学校  http://www.koranjo-j.ed.jp/
広げよう人権 http://www.jinken-net.com/old/tisiki/gozonji/2001/go_0103.html
宮元百合子  http://www.f-miraikan.or.jp/index4/4-2-2-name4.htm
http://www2.snowman.ne.jp/~tb-ryo/ron3/ron4.html
http://www.nskk.org/hokkaido/jimusho_news/shoho396.htm
http://www.iwate-np.co.jp/news/y1999/m199911/n19991101.html
http://plaza7.mbn.or.jp/~uchronia/ibosihokuto.html
http://www.lib.hokudai.ac.jp/hokkaido/mukashi/3620.HTM  ←バチェラー夫妻と八重子と弟山雄の写真